国連幻想を解析する(中)東京の「国連大学」は大学ではない
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【まとめ】
・国連には本来、主権国家に命令し、それを実行させる権限も実力もない。
・しかし日本には国連への奇妙な崇拝や信奉が存在する。理由の一つは「国際連合」という日本語の誤訳である。
・日本側のそんな過剰な国連礼賛の実例は、国連大学の誘致だった。
国連には本来、主権国家に命令し、それを実行させる権限も実力もない。戦闘や紛争を止めるという能力や資格にも欠ける。それなりの存在意義こそあるが、欠陥だらけの国際機関なのである。悪しきグローバリズムの拠点ともいえる。
しかしわが日本では国連の実態への現実的な認識がまだまだ少ないといえる。国連への奇妙な崇拝や信奉が存在するのだ。その理由の一つは「国際連合」という日本語の誤訳である。
周知のように日本で国連、つまり国際連合と呼ばれる組織の原名は英語の「ユナイテッド・ネーションズ(United Nations)」である。第二次世界大戦の戦勝国がアメリカの主導で創設したこの国際機関は正式の英語名称を正確に日本語に訳せば「連合した諸国」となる。名称の主体はあくまで「諸国」、つまり国家なのだ。
だが日本外務省はこの言葉を逆転させ、「国際連合」と訳した。この表現だと国家が後退し、国家群の上部に存在する超国家機関という感じになる。
「ユナイテッド・ネーションズ」は第二次大戦で日本やドイツと戦った連合国の名称でもあった。それと同じ名の新設の国際機関も直訳すれば「連合国」となる。現に中国や台湾では国連を「聯合国」と公式に呼んでいる。日本外務省の関係者も日本語訳の矛盾を認め、国連を国家を超える存在としてみる期待がその誤訳を生んだのだと述べている。
国連は1945年10月に合計51ヵ国により創設された。現在の加盟国は193ヵ国となった。創設の主体は第二次大戦の戦勝国だったから、その敵となった日本やドイツに対しては敵国条項という差別があった。
創設の目的は「国際平和と安全の維持」、「諸国間の友好関係の発展」、「経済、社会、文化、人道などの問題解決」などとされていた。その基礎には第二次大戦を防げなかった国際連盟(1920年から1946年)の失敗への反省があった。
だが国連も最大任務とした平和の維持には無力だった。安全保障理事会のアメリカ、ソ連など常任理事国5ヵ国に1国の反対ですべての案が葬られる拒否権が与えられたことが主な理由だった。経済や人道に関しても各国のギラギラした利害の計算が錯綜し、不毛な状態が続いた。なによりも国連はそもそも加盟の主権国家に強制や拘束を課す権限がなかったのだ。
ただし国連にも利点はあった。開発途上国への経済支援や人道主義活動での難民救済などでは成果もあげた。だが最大の目標とされた平和の保持、戦争の抑止では無力だった。かつてのベトナム戦争、いまのウクライナ戦争、中東戦争などがその実例である。
日本はそれでも当初から国連への加盟を切望し続けた。ソ連などの反対や連合国との戦争の歴史のために障壁は多かったのだ。日本がやっと国連加盟を果たしたのは1956年12月、日本自身の独立から4年以上も後、国連創設から11年も後だった。それまでの間、日本国内では官民あげて国連への加盟が悲願のように熱をこめて表明された。
日本での国連観は「平和の殿堂」とか「全世界の理想の統治」という賞賛の言葉に集約されていた。日本の国連加盟後、当時の日本での安全保障や国際政治の権威とされた東大教授の坂本義和氏が日本はアメリカとの同盟もやめ、自衛隊も廃し、国連軍を駐留させるべきだと主張したことは象徴的だった。いまからみれば国連軍を日本防衛の専属にするというのだから夢想に近い主張だった。
もっともこの種の国連信奉は長く続いた。2000年冒頭の時期に日本の政界を独自の手法で動かした小沢一郎氏は日本の安全保障や外交の最大指針として「国連中心主義」という政策標語を繰り返し唱えた。日本自身の防衛でも、対外的な姿勢でも、とにかく国連の動きに従えばよい、というのだ。これまた非現実的な思考だった。国連に日本の領土を武力で守るような動きはまったく期待できないからだ。
日本の独立直後からの国連加盟への切望はそれなりに理解できる。戦争に負け、アメリカに占領され、国際的にも凋落した日本がなんとかまた国際社会への復帰を願ううえでは国連への加盟は明るい灯だった。日本政府はとにかく国連に貢献し、密着し、日本こそが国連の有力な支え手なのだという姿勢を誇示しようとした。日本国民の多数も同様の心情をみせた。その背後には日本がかつて国際連盟から脱退し、戦争への道をたどったという歴史への反省もにじんでいたといえよう。
だが日本の官民のそんな国連への信奉や希望は的はずれの部分が多かった。国連自体が世界の諸国家をまとめ、導く超国家の存在ではなかったからだ。あくまで主権国家の寄り合い所帯だったのだ。それぞれの国家が「国際」とか「世界」の名の下に自国の主張をぶつけあう駆け引きの場だったのだ。だから日本の当時の国連への態度は「空疎な期待」、あるいは「幻想」でさえあった。
日本側のそんな過剰な国連礼賛の実例は国連大学の誘致だった。東京の渋谷の青山通りに豪華にそびえる14階の立派なビルは正面に英語で「国連大学」と記されている。だが看板に偽りあり、大学としての機能はない。学生がいない。教授がいない。講義がない。奇妙な存在なのだ。
この国連大学は日本政府の必死な努力と経費負担で渋々の国連側を説得して東京に誘致したのだった。1969年にウ・タント国連事務総長により構想が提示された国連大学は「多数の国からの教授陣と若い男女の学生から成る」教育機関という趣旨だった。だが国連の主体となる先進諸国はみな反対だった。経費や政治性が壁となっていた。
ところが日本だけが異様な熱意をみせた。すべての土地や建物、経費を日本が負担するという前提で1973年に国連総会で開設の決議案を採択した。棄権や反対の国も多かった。さらに教育機関ではなく研究機関とすることが決められた。開設の当初から大学ではなかったのだ。
しかし日本は時価20億ドル以上の一等地を国連大学用地として無償提供した。別の1億ドルを運営基金とすることを決めた。日本の丸抱えでの1975年のオープンだった。
以来、半世紀近く国連大学は大学の機能は果たさず、国連関連の一部専門家などのための研究拠点に留まっている。前述の日本批判の特別報告者などが利用するだけなのだ。まさに日本側の国連幻想のシンボルなのである。
(下につづく。上はこちら)
*この記事は月刊雑誌WILLの2025年1月号に掲載された古森義久氏の論文を一部、書き直しての転載です。
トップ写真:国連大学(2010年1月26日)出典:鴨志田紘一/Getty Images