カーター大統領への追悼 その光と影
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【まとめ】
・アメリカの元大統領ジミー・カーター氏、12月30日に死去。1月9日に国葬が行われる。
・カーター政権は対外、国内両面において失態をし「史上最悪の大統領」と呼ばれた。
・一方で、誠実な態度であったカーター氏は、その後元大統領として活躍し、「最高の元大統領」とも称された。
アメリカの第39代大統領のジミー・カーター氏が12月30日に死去した。その国葬が1月9日に執り行われる。歴代大統領で最も長寿だったカーター氏は100歳だった。私の長年のワシントン報道でもカーター氏は個人的には最も親しみを感じた大統領だった。アメリカという国の寛容さや、アメリカ政治の魅力を強く実感させてくれた政治指導者でもあった。
だがその反面、カーター氏の大統領職務の執行には欠陥が多かった。内政も外交も失態と呼ばざるを得ない軌跡を残した。私自身、直接接したカーター氏の誠実きわまる挙措から受けた個人レベルでの好印象があまりに強かったために、大統領としての彼の負の部分を伝えることには強いためらいを覚える。とくに死者についてそのマイナス面を語ることは不公正という言葉さえ連想させる。しかし歴史上の人物の客観的な評価は欠かせないだろう。
私がカーター氏に対して初めて報道の対象として向きあったのは1976年秋だった。アメリカ大統領選たけなわのその時期、カーター氏は民主党の新人候補として選挙戦を戦っていた。相手は共和党の現職ジェラルド・フォード大統領だった。私自身は毎日新聞のワシントン駐在特派員としてのスタートを切ったばかりだった。
南部ジョージア州の知事を一期、務めたというだけの政治歴のカーター氏は国政レベルでは無名に近い新人だった。だがその前年のべトナム戦争での大挫折で沈鬱した当時のアメリカでは反ワシントン、反エスタブリッシュメントを体現したようなリベラル派の新星カーター氏が人気を集めていた。
カーター氏は海軍士官学校出身、アメリカ海軍の潜水艦の軍務という経歴こそあったが、その後は故郷のジョージア州でピーナツ栽培の農業やキリスト教会の牧師となっていた。そして同州の知事選に出て当選を果たした。政治的には民主党本流ともいえるリベラル派だった。そして1976年の大統領選ではフォード大統領を破った。フォード氏の前任のリチャード・ニクソン大統領がウォーターゲート事件の醜聞で辞任に追い込まれたことも共和党保守派への不信を広めていた。
1977年1月20日のカーター大統領の就任式は寒い日だった。だが快晴だった。私ももちろんその就任宣誓を至近距離の報道陣席でみつめていた。宣誓の後、議事堂からホワイトハウスまでの1キロほどの距離を自動車のパレードで行進するのが通常の慣例だったが、カーター夫妻は途中で街路に降り立ち、手をつなぎながら、ホワイトハウスまで徒歩で進んだ。56歳とはいえ、若さを感じさせるカーター新大統領の力強い足取りは新鮮さ、明るさを強く実感させた。
ワシントン取材を始めて間もない私が目前に見たこの展開は明るい時代、新しい政治の到来を思わせた。以後の4年間の重苦しい動きを想像もさせなかった。私が直接に接触したカーター大統領は倫理や善意を重視する誠実な人物にみえた。頻繁な記者会見に加えて、カーター大統領は長年、アメリカ合衆国が事実上、保持してきたパナマ運河を地元のパナマ国に返還した。米側保守派の激しい反対を振り切っての措置だった。当時、軍備を拡大し、各地で共産主義勢力を膨張させていたソ連に対しても融和的な態度をみせ、平和や友好を強調した。一方、アメリカの軍事力はその増強を抑制する方向へ向かった。
私自身、カーター大統領が日本で初めて開かれたG6先進国首脳会議に加わる旅に同行した。その後、同大統領がエジプトやイスラエル、さらにはポーランド、イラン、インド、韓国などを歴訪し、人権尊重を説く旅にも同行した。間近で接すれば接するほど、カーター氏は誠意や善意の人物だと感じるようになった。とにかくどんな問いかけにも、真正面から応じ、一生懸命に答えるという姿勢なのだ。
とくにカーター大統領は日本訪問の直前に日本人記者数人をホワイトハウスでの会見に招き、質疑応答に2時間近くも費やしてくれた。私も加わり、何度も質問することができた。そのたびにカーター大統領はソフトな南部なまりの言葉で、懇切丁寧に答えてくれた。外国の報道陣のためにこれほどの時間と熱意を費やすアメリカ大統領はその後もみたことがなかった。
カーター政権は日本メディアには特に友好的でオープンだった。ワシントン駐在の日本人記者団とホワイトハウスのスタッフとのソフトボールの親善試合まで許したほどだった。ただし結果は日本側の惨敗だった。その理由の一つはカーター政権のスタッフには若者が多いことだった。20代、30代の青年男女がホワイトハウスの要職にも多数、就いていたのだ。
カーター大統領は中東問題に関してはイスラエルとエジプトの和平合意を実現して、それなりの成果をあげた。1979年1月の中国との国交樹立もその準備は共和党のニクソン政権時代からアレンジされていたとはいえ、鄧小平氏との合意文書に署名したのはカーター大統領だった。人権外交もその最大の弾圧国であるソ連や中国には手をつけずという感じだったが、その他の全体主義志向の諸国にはそれなりの警告を発した。
しかしカーター政権下ではまずアメリカ国内が停滞した。最大要因は経済の悪化だった。リベラル政策による極端な「大きな政府」策により企業の活動が抑えられた。政府支出の膨張で財政赤字が記録破りに増え、インフレ率が急上昇した。増税も大幅だった。失業も増えた。その結果、アメリカ全体がマレーズ(沈滞)と評される停滞の暗い雲に覆われた。
だがそれよりずっと深刻だったのはアメリカの対外関係の悪化だった。東西冷戦でのアメリカ側の顕著な後退、自由民主主義陣営全体の大幅な衰退だった。カーター氏は人権外交を唱えながらも、最大の敵のソ連に対しては一方的な善意といえる融和の姿勢をとり、国防費を削っていったのだ。軍備管理の対立案件でも善意を強調し、一方的に譲る動きをとった。
ソ連はアメリカのこの態度を後退や弱体とみて世界各地で攻勢に出た。その究極の動きが79年12月のアフガニスタン侵攻だった。ソ連の特殊部隊がアフガンの首都カブールに突入して、現職の最高指導者を殺害するという蛮行だった。ソ連軍はその後、アフガニスタン全土の軍事占領を目指した。東西冷戦の基本構図が一変した。カーター氏は「私のソ連に対する認識は誤っていた」と公式に言明した。
カーター外交でのもう一つの汚点は79年11月、イランのイスラム過激派にテヘランのアメリカ大使館員50人以上を拘束され、444日間も人質に取られるという失態だった。後ろ手を縛られ、目隠しをされたアメリカ人外交官が過激派に連行されてテレビカメラの前に立ち、自国の非難を言明させられるという米側にとっては屈辱的な光景が連日、放映された。しかもカーター大統領は米軍ヘリを秘密裏に送りこんで人質を救出するという作戦にも、完全に失敗した。
写真)目隠しをされて誘導される米国大使館の人質たち イラン・テヘラン 1979年11月4日
こうした対外、国内両面での失態がカーター氏に史上最悪の大統領というレッテルを与えるほどになったのである。と同時にカーター氏が推進したリベラリズム、とくに主敵のソ連への軟弱な態度がソ連の世界各地での勢力拡大を招いたという非難が定着してしまった。そして1980年の大統領選挙ではカーター氏は現職ながら、共和党保守派のロナルド・レーガン氏に大敗したのだった。
アメリカ国内の長年のリベラリズムと保守の競合でも、カーター政権まではリベラリズムが議会での多数派であり、国政の政治基調もリベラル側の主導が明確だった。その長年の構図がカーター政権によって崩れたといえる。いわばリベラリズムの破綻をカーター大統領が招いたとされたのだった。以降、保守主義は多数派といえる地位を続けることとなる。
だが皮肉なことにカーター氏は大統領退任後、活発な動きをみせることとなる。その後の40年ほども元大統領として内政や外交に寄与してノーベル平和賞までも受賞したのだ。「最高の元大統領」と称賛されることにもなったのである。
トップ写真)ジミー・カーター米大統領(1970年代)
出典)Hulton Archive/Getty Images