読書録――『NEXUS 情報の人類史』、『年賀状は小さな文学作品』、『終生 知的生活の方法』

牛島信(弁護士)
【まとめ】
・AIは近い将来、新しい生命体を創造する能力を獲得する可能性が高い。
・明治の日本における倫理観は、イギリスという西洋の代表に学びに行くということに胚胎。
・「初版本」世界の広がりに期待。
以前、「『キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法に過ぎない』という命題に私は驚いた」と書いたことがある。(『身捨つるほどの祖国はありや』417頁 幻冬舎 2020年刊)
そこでは「『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社、2018)のこの部分が強く私の記憶に残った(下巻210頁)。」とも続けている。「『これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ』と言われれば、そんなものかと思う」とも併せて引用している。
現在、私は同じハラリの新著『NEXUS 情報の人類史』(河出書房新社 2025年)を読んでいるところだ。上巻から始めて6割くらい読んだところで下巻に移った。上下巻の目次を見ているうちに先に下巻が読みたくなってしまったのである。下巻の半分まで来ている。そういえば、前著のときにも私は「私はこの上・下二冊の本を下巻から読み始めたのである」と書いている。気ままな読者の気ままな読書ということのようである。
この新著の感想は別途述べるとしても、この本に私は相当に引き込まれている。前著と同じことが起きている。
AIは、「今後数十年のうちには、遺伝子コードを書くか、非有機的な存在に生命を与える非有機的なコードを発明するかして、新しい生命体を創造する能力さえ獲得する可能性が高い」(上巻21頁)という部分が強く私の心に突き刺さったまま上巻を読み続けていたのだが、ついに下巻に飛んで行かずにおれなくなってしまったのである。
私の心、と書いた。なんとも曖昧な言葉遣いである。
心とはなんだろう?どこにあるのだろう?
心といえば、漱石の『心』を思い出す。漱石は自著『心』の広告に「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む」と述べている。漱石は心がいったいどこにあると思っていたのだろうか。
閑話休題。
前にも書いたが、このJapan In-depth というサイトのお蔭で『年賀状は小さな文学作品』(幻冬舎)という本を世に出すことができた。何人かにお贈りしたら、読んでくださったうえにわざわざ感想を送ってくださった方が何人かいる。
或る方からは、読んでいて気持ちが入ってしまって読みこんでしまうところが多く、読むのに時間がかかった、著者の人生が感じられた旨のお褒めの言葉をいただいた。
他にも、漱石が三角関係をいくつもの作品に取り上げていることに私なりの考えを書いている部分について、読後感を送ってくださった方があった。受けとった私は、実のところ、鷗外と違って漱石が三角関係について繰り返し書いていること、それについて自分なりの解釈を持っていると書いたことまでは憶えていたのだが、肝心の具体的にどう述べていたのかを直ぐには思い出せなかった。で、ワードの検索機能を利用してその箇所を探してみた。
すぐに出てきた。
「以前、鷗外を愛読していたころには、漱石という人はなぜああも三角関係が好きなのかと不思議な気がしていた。しかし、今はわかる。別に漱石は三角関係が好きだったわけでも、いわんや自分の人生のなかで三角関係を実践していたわけでもない。色恋への興味ではない。
『私は倫理的に生れた男です』と『こころ』のなかで先生が言う。漱石の心のなかには、いつも倫理的であるとはどういうことかという問題意識があったのだろう。では明治の日本における倫理的とはどういうことか。
それは、漢文学と江戸趣味に育った新興日本の青年が、イギリスという西洋の代表に学びに行くということに胚胎しているのだろうと思っている。解決が得られたとは思えない。それどころではない。バブル崩壊から30年。日本は改めての『普請中』なのである。」(『年賀状は小さな文学作品』246-247頁)
私は人の心というものは、大部分大脳の新皮質にあるのだろうと思っている。
ところが、AIが「非有機的な存在に生命を与える非有機的なコードを発明する」というのだ。これは大変なことだと感じながらも、たぶんそうなるのだろうなと思いつつ、読み進めているところだ。
ところで、つい最近たまたま書架から渡辺昇一の書いた『終生 知的生活の方法』(扶桑社新書 2018年刊)という本を取り出して拾い読みした。蔵書の効用である。
渡辺昇一といえば、若いころ『知的生活の方法』という本を読んで驚いたのを思い出す。1976年刊行で、ネットの広告には「累計部数118万部超!! 講談社現代新書史上最大のベストセラー!!」とある。
読んだのは司法修習生のころだったという記憶がある。それは1976年に一致する。それどころか、市川市の二人住まいにしては広大なマンションの絨毯の上にコタツを置いて、そのうえで読んでいたことまでも記憶している。4月刊行とあるから、二度読んだのだろう。私には、自分がそのように過ごすことはあり得ないところの、しかしなんとも素晴らしい生活を実践している変わった人がいるものだ、という思いが心に刻み込まれた。
今回の本を拾い読みしての収穫は、「年をとると、若い頃読んだ小説とは見方が変わります。」とあった部分である。『道草』について「『?』でした。」とあった。(67頁)
渡辺氏は川端康成を例に「こちらが年をとると、『なにを青臭いことを書いて』という発想になるのです」と述べている。さらに「一番極端なのは夏目漱石です」となる。似た発想をある方から聞いたばかりだったので、なるほどやはりそういう人がいるのかという思いだった。
もっとも、私は今でも漱石の『こころ』を読み甲斐のある小説だと思ってなんども読んでいる。
ひとつ拾いものをした気になっているのは、初版本の良さについて強調しているところである。「特に漱石の初版でうれしいのは、字が大きい点です。考えてみたら、当時、普通の人は小説など読みません。小説の一番のお客様は花柳界の人と言われていて、薄暗い部屋やランプの明かりでも読めるように、字が大きくしてありました。」(67頁)とある。
そんな背景事情のことなど少しも知らないでいた。それにしても『こころ』が花柳界の人に読まれたとは。
この本は、2018年に出されたときにすぐに読んだ本なのだが、この部分は印象に残っていなかった。
漱石の初版本といえば、私もそれを持っている。ただし、復刻版である。1979年7月15日に日本リーダーズ ダイジェスト社が復刻したとある。訴訟事件になり、私も新米弁護士としてかかわった。はるか後になって、ふとしたころから購入してみた「初版本の復刻」である。安かった。
渡辺氏の言に、私は改めて、なるほどなじみの小説であっても初版本で読んでみれば異なった印象を抱くかもしれないと思わされた。私は言語の特性から、初版でも文庫本でも同じことと頭から決めて脇目もふらずに実行していたのである。今回は初版本の新しい世界が広がるかもしれない、と期待している。
トップ写真)AI(人工知能)の概念