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.社会  投稿日:2024/12/10

団塊の世代の物語(11) 


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・英子の赤坂のマンションに定期的に通う三津野。

・三津野は大木を誘い、英子と会社を作る話をする。

・そして、その会社を「社団法人」にする考えを打ち明ける。

 

赤坂新坂パークマンションを定期的に訪ねるようになってどのくらいになったか。

三津野はタクシーを降りると慣れた調子で合鍵を使ってなかに入った。古いマンションだから昔のやり方のままだ。だから却って安心する自分がいつもいて、少しおかしい。

エントランスの扉を入ると濃い茶色の寄木を張った床になっている。ホールを左に曲がってエレベータのボタンを押す。一つしかないエレベータだ、すぐにやってくる。全部で9戸しかない、小さなマンションなのだ。小体という言葉にふさわしい。できてからもう30年以上建っている。バブルの当時、ライバルの三井不動産が売りに出したのも覚えている。パークマンションという名称は三井不動産の最高級シリーズにしか付けられないブランドだ。発売当時、三津野は自分の個人的な趣味に合っているな、しかし滝野川では手がけようもないと苦い思いとともに羨ましく感じたことをよく憶えている。

だが、まさか何十年も経ってからあと、自分がそのマンションに通うことになるなどとは思いもかけなかった。三津野にとってマンションは商品でしかない。50年間以上そういう人生を送ってきたのだ。英子のものだった。

「これは私個人のもの。会社の名義じゃないの。だって、あなたと二人の小部屋なんですもの、私の名前、岩本英子というは名前が登記簿に出ているところにいたいの。」

鍵を三津野に渡すとき、英子が三津野の手のひらに鍵を載せ、その手を自分の両手で包み込むようにしながらつぶやいた。

「私は、こういう小さなマンションが好き。最近はやりの大きな、高層マンションはいや。あれは若い人、やっと二人の収入を合わせて買えるというレベルの人たちのもの。小さな子どももいて、きっと楽しいことでしょうね。

でも私はこちらがいい。古くて、小さくて、管理も行きとどいていて、管理人さんとも顔見知りになっているから当たり前のように挨拶を交わすような、そんなマンションが好きなの。このマンションは仕事用じゃないもの。」

そういいながら、英子は三津野を大きな寝室に導く。

「ほら、このベッドもオークラと同じサイズのダブルをいれたの。キングサイズ。私の王様のためのベッド。羽根布団もオークラとおんなじもの。どちらも、わたしたちが初めて触れ合ったときと同じものよ」

ベッドに腰かけたまま弾んでみせる英子の隣に腰かける。確かにあのときと同じ感触だった。

あの日、あの夜の英子と自分。あのときの二人は、この感触のベッド、肌触りの羽毛布団のなかにいて、若かったときのように二人になっていることだけで愉しくてたまらない気分になっていた。

無数のマンションを売ってきた身の三津野には、「小さなマンションが好き」と英子の言っている意味がよくわかった。しかし、滝野川不動産としてはそうは行かなかったのだ。売上、利益、そしてなによりも株価。ふっと昔の時代の先輩が羨ましくなる。株価など気にも留めていなかった。

「三津野君、ウチはお客様のためにあるんだよ。一にお客様、二にお客様、三にお客様だ。」

そう繰り返して未だ二十代だった三津野を鍛えてくれた大先輩の細野さんは、結局副社長で退職した。社長になると誰もが思っていたが、それがかえって裏目に出たというのがメディアの評だった。その直前まで「滝野川、細野副社長が後継か」とはやしていた経済誌が、遠山副社長が社長に決まると、まるでなにもなかったように遠山社長の後継が既定の路線だったと伝えた。しかし三津野は知っていた。越前谷社長が細野と遠山の間で迷っていたこと、できれば細野に後継を託そうと思っていたこと。それを察した越後谷の前任である丸山会長が越前谷の機先を制して、「次は遠山君しかないな。君もそう思うだろう」と出て、作戦勝ちになってしまったのだった。

滝野川不動産の現場の人間たちは誰もが、ビル営業の責任者だった細野こそが滝野川の祖業の地である日比谷、新橋一帯、小さなビルが林立し、雑然としてくたびれ果て薄汚れてすらいた地域を、目の覚めるような外国の一流ブランドエリアに一新したのだと知っていた。細野の豪腕なしには叶わなかったことだとわかっていた。顧客を相手にするものは誰もが、細野こそが滝野川の新社長になり、滝野川を引っ張り、新しい成長をもたらすことができる新しい時代の新しいリーダーだと熱烈に思いつめ、期待していたのだ。

三津野もその一人だった。細野とは二人でミラノのブランドの社長を口説きにイタリアへ出張し、あっさりと拒絶されたことがあった。ブランドの本店から外へ出ると細野はにっこりしながら、「なあに、やっと始まったってことさ。そういうこと、三津野君」と言ったのだ。パークハイヤット・ミラノのレストランでスプマンテのグラスを大きな音で合わせて明日を誓いあった。三津野は椅子の座面がお尻と合わず違和感があったのを今でも憶えている。ヨーロッパのホテルはヨーロッパ人を基準にしているから、日本人にはどこの椅子も少し高すぎるのだ。北へ行くほどその傾向が強い。

手もとのフルートグラスに立ち上るスプマンテの泡を眺めながら、三津野は<ああ、この人に出逢っただけでも生きて来た甲斐があった。>と感じていた。浮かんでは消え、また次の泡が浮かんでくる。終わりはない。しかし、いま、この瞬間に自分が飲んでしまえば終わらせることが出来るということだ、と三津野は一口に飲み干した。

細野は滝野川不動産の系列のホテルに出て、そこで滝野川ブランドをホテル業界で確立し、亡くなった。細野からはこんな話を聞いたことがあった。彼が学生時代のことだということだった。

東京の大学の2年生だった初秋、京都の左京区、京都大学近くに住んでいた女性を、3階建てマンションの2階、外廊下の中央付近の部屋に訪ねた。直前の夏の日々の恋の相手の女性だった。

男の訪問を知ると、彼女はマンションの部屋の扉を後ろ手に閉めるようにして、手に大きな財布を抱えて自分の部屋から出てきた。

そのとき私が思っていたのは、彼女のマンションに行けばその晩からそこに泊まることになるだろうということだった。なぜなら、私と彼女とは、二人がその夜からそうなるべき関係にすでにあると私は考えていたのだ。私がそう考えたとしても一方的なことでないだけの十分な積み重ねが、その直前の夏にあったからだ。確かに短かった。しかし、私が彼女に思いを寄せていることは何年もまえから彼女の知っていることだった。そして、短い夏だったが、その夏の日々に二人が話した中身は濃く、具体的だった。

彼女と私が、その夏、地元の大学のヨット部主催の講習会に二人そろって参加したことから、二人の熱い夏が始まったのだった。私が誘ったのだ。未だ携帯電話のない時代、私は自宅の黒い電話から彼女の家の電話器の番号を回し、幸い電話に出た彼女にその講習のことを告げて一緒に行こうと誘った。彼女はすぐに承諾し、二人は大学のヨット部のある港で落ち合うことになった。

その講習の一環としてあった小さな島への回航の途中には二人きりで海に浮かんでいるフリーの時間があった。私の目の前で浮いていた彼女の身体は真っ白なビキニに包まれていた。そのビキニの下半身部分ときたら、前後の布切れを左右の腰の部分にある金色の輪っかだけでつなげただけというなんとも危ういデザインだった。お互いに近寄ろうとした二人が海のなかでぶつかりそうになったとき、急に彼女が止まろうとして両手で水を逆向きに掻き、その瞬間に大きな乳房が弾んだ。

母校に戻ってから後、その夏休みの残りの限られた時間、二人はしばしば会い、彼女が言いだして駆け落ちするしかないという話になった。

二人で歩いていての通りがかりに入った喫茶店。店の名前が彼女の名前の一字だからここに入ってみようと彼女が誘ったのだ。彼女は未だ夏なのに長袖のシャツを着ていて、理由をたずねた私に、「私、陽に焼けるのがいやだから夏でもほとんど半袖は着ないの」と教えてくれた。「私、なにもできない。京都女子大学なんて中身はなにもありっこない。私にできるのは、アメリカ風に化粧するくらいだけ。」そうも、自嘲的に云った。

店を出て左右に別れると、彼女はすぐに当たり前のようにタクシーを停めた。その姿と立ち居振る舞いに、妙に大人びた彼女を感じた。あの夏にはたくさんのことがあった。

私は東京大学に在学し、彼女は京都女子大学に在学していた。駆け落ちでもしなければ二人がともに暮らすことは不可能だった。二人で相談して決めた駆け落ちは唯一といっていほど合理的な結論であり、現実的には私は父親が買ってくれようとしていた車の代金を当面の生活費に充てることができるとまで胸算用していた。もちろん、彼女が京都から東京に来るという計画だった。

だから、私はあの秋の夕刻、彼女のマンションに泊まるつもりで訪ねたのだ。少なくとも、夏に起きた客観的な事実はそうなってもおかしくないことを私に指し示していた。

「京都の」という、加藤周一の『羊の歌』のなかにある一章の雰囲気を私は漠然と胸のなかに描いていた。京都という名にはそういう香りのするところがある。彼女のマンションのあった付近にもそんな気分がただよっていた。加藤周一のその文章が虚偽だと私が知るのは、ずっと後のことになる。なにもかも今は昔。

73歳の私は、マンションの部屋のなかにいた男、中学から高校の同級生であり後に彼女の夫となった男が亡くなったという情報に接し、彼女と再び逢うことが客観的に、かつ道徳的に可能になったのだという目のまえの新しい事実に圧倒された。実行するのかしないのか、それは未来に属する。これから先の、心躍るような、目くるめくような体験の可能性に少し気の遠くなるような感覚が私を襲い、包み込んだ。ずいぶん久しぶりの感覚だった。それが身体のうちで躍動し始める。なんという快感、または快感の予感。

これから彼女に会って、未来に向かって二人で暮らし始めること。73歳の老人同士であっても、まだ残りが10年間はあるだろう。私は鷗外の『じいさんばあさん』を思い出していた。あの二人は、何十年かの強いられた別居の後、再び二人で暮らすことを得て、ままごとのような二人きりの暮らしを生きた。それから何年をともに生きることができたのかを鷗外は語っていない。ただ、そうなった過去の由来と、ままごとのような暮らしが現在において存在しているとだけ書いている。

私は?

取り戻すに足る過去があったのではない。先が短いがゆえに、その束の間を生きていることを感じとりたいという火のついたような欲望が、73歳の身体全体を包んで燃え上がる炎のように右に左に大きく揺れながら燃え始めていた。もしどちらの側にもその炎があれば、事はかんたんに始まるだろう。

彼女についてのいくつかの記憶のいくつか。とても大きな胸とぽっちゃりとした体つき。中学だったかの卒業アルバムに、運動会の二人三脚のほほえましい写真があり、そこには「よいしょ、よいしょ」と吹き出しが添えられていた。

制服の白いブラウスの背から透けてみえるブラジャーの平たい紐。大きな四角のオレンジや薄緑など色とりどりの柄が見てとれる。ふっと私の机の前を通る時に渡す小さな、水色がかったノートのきれっぱしに書かれた「いっしょに帰ろう」というメモ。「笑いの絶えない家庭をつくりたい」となぜか私に言ったことがあった。中学の2年と3年、私たちは同じクラスにいたのだ。いいや、高校だったか。いやそのときには別の女性と親しくしていたから、あのノートのきれっぱしと二人で市内電車を途中で降りて歩いた木造の細長い橋の記憶は中学時代のことなのだろう。

あれから60年が経っているのだ。荒涼または荒寥。荒廃。

だが、手に入った彼女とその夫の出身高校の同窓会名簿の男の欄には、もう住所の記載がなかった。それだけではない。私は彼女の欄にもそれがないことを確認した。疑いない。それはなにか、遺された彼女の思い、処世についての覚悟のほどを示しているのではないか。彼女はいまも生きているのだ。それでも、自分の連絡先を世間から断つ。彼女の意図がくっきりと表現された欠落。己の存在を俗世から抹消しよという断固たる決意の表明。そう見える。たとえば、夫という配偶者が死んでしまったから、自分のこの世に生きている外形をもはや最小にしたい、と。あるいは、自分を好きだったもう一人の男、Sが1年前に死んでしまっていたことともかかわるのだろうか。このSとは高校の卒業アルバムにふたりだけで、顎を両方の手で支えるような姿で載っていたのを観たことがある。それほどの仲だと周囲のだれもが認めていたのだろう。そうかもしれない。

手もとの6年前の名簿をみる。あった。以前に見た記憶がある。彼女と男の2人ともが、同じ地元の町の同じ住所で記載されている。私が子どものころ地元に住んでいた時代の場所に近く、ほんの1年間だけ勤務した地元の支店にもごく近い、よく見知ったエリアだ。もちろん、それも40年以上も前の知識に過ぎない。とはいいながらも、グーグルマップで調べてみれば、40年前にあった建物で未だ残っているものもあるようだ。その住所のマンションは2004年に新しく建築された建物だということも、すぐにわかった。

20年前が新しい?そうなのだ、73歳の男には20年前はついこのあいだのことに過ぎない。

いずれにしても、生きているものにとってはこの瞬間も、途切れなく続いている時の連なりの不可分の一部であり、これからもしばらくは続く生命の途切れのない流れに浮かぶうたかたなのだ。いつまでかなど知る由もない。そんなことなぞ知ったことか。目の前の今を生きることで忙しいのだ。現に、彼女の裸の胸を鍵穴から覗いた男は鬼籍に入り、私が好きだった彼女は男の妻となり、その夫である男は去年死んだ。それが、私にとっての、めくるめく未来の始まりの前提をなす事実ということなのだ。いま私は、男が死に、彼女が生きていることを知ってしまっている。

「抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。」(石原慎太郎『処刑の部屋』エピグラフ)が頭に浮かぶ。

老人には、残された時間はごく僅かでしかないという意識がある。すべては伊藤整がいうとおり、「老齢の好色と言われているものこそ、残った命への抑圧の排除の願いであり、また命への讃歌である。無関係な人には醜悪に見えるはずの、その老齢の好色が、神聖な生命の輝きをもって私の前方にまたたき、私を呼んだのだ。」(『変容』369頁)「七十になって見たまえ、昔自分の中にある汚れ、欲望、邪念として押しつぶしたものが、ことごとく生命の滴りだったんだ。」

伊藤整は、さらに高い調子で続ける。

「そのことが分かるために七十になったようなものだ」。

老翁と老媼の性生活。老翁はたとえば『瘋癲老人日記』の谷崎潤一郎の年齢になっている。仮に彼女が今回は私の期待に沿ってくれたとして、二人にとっての性行為はあり得るのか、それ以外の73歳の男女の充実した性生活とはどんなものであり得るのか。

暗いところにいることにしよう。あなたが私を見ないで済むように、私があなたを見ないで済むように。手を伸ばせば、あなたは私に触れることができる、私はあなたに触れることができる。何十年も叶わなかったことが、いま、すぐそこに存在している。それだけで十分ではないか。

死という虚無が一刻々々近づく今、なにを躊躇することがあるのか。死ねばなにもかも消える。今、ここで、二人が結びつくということが起きなければ、永遠になにもないままになにもかも消滅する。そういう声が私の心のなかでにひそやかに、歯切れよく、そして鋭く、次いで地鳴りのように響いた。

しかし、あの偶然がなければ73歳の私が73歳になった彼女に再び会うことはなかったろう。男の死を知ったからといって、私が彼女に電話をすることはあり得ない。もうあれから50年も経っているのだ。彼ら夫婦にはきっとなん人かの子どもがいて、おそらく一番若い子どもでも40歳をとうに過ぎているのではないか。何人もの孫がいることだろう。男と彼女は、73歳の中学高校の同級生同士の、少し枯れた、しかし未だ10年はあるはずの老後をともに生きていたに違いない。ところが男が72歳で死んでしまった。もちろん死因は知らない。72歳は、どんな原因であるにせよ、一人の男が死んだところでさして不思議のない年齢だ。もう誰も早過ぎた死と悲しみはしない。

だが、私から彼女に電話をかけることは可能、possibleだが、probableでないどころか、起こるはずのないことだった。

私はそう知っていた。なぜなのかわからない。それはほとんど確信に近いものだった。私を信じている女性を裏切ることはしたくない。相手にとっては、その信頼を引き裂かれることは、もう取り返しがつかない。ああした真似はもういい加減にしておきたい。老人の分別、ということになるのか。

たぶんそうなのだろう。たくさんの殺生をしてきたこの身が、また殺生を重ねる。我が身が地獄に落ちるのは身から出た錆としても、あの女性が心に血を流すのは耐えられない。

そう自分に言い聞かせるやいなや、すぐに悪魔の囁きが耳元に細く小さく、しかし聞えよがしに届く。「黙っていろ。隠してさえいればわかりゃしない。そして、知らなければ存在しないのと同じことだ。そうやっておまえはなんども秘悦をむさぼり味わってきたではないか。でも今回はもう違うだと?俺様にはおまえのぼそぼそしたたわごとなど聞こえないな」

私は自ら求めることは決してしなかった。だが、あんなところに罠が用意されているなどとはおもいもかけなかった。私ではない、誰があんなものを仕掛けたのか。あの、いつもの悪魔、おまえの仕業なのか。

あの日、顧問をしている会社の用で地元に出かける必要がたまたま私に生じ、その仕事が予定よりも早く終わってしまって飛行機の便まで時間のあった私は、とうに諳んじていた彼女の家のある住所の近くを歩いてみることにしたのだ。そこは、若かった私が地元の支店で働いた場所にも近かった。支店勤務時代のセンチメンタルジャーニーと自分に言い訳をすることもできた。

それにしても、どうしてあのコーヒーショップに入ったのか。入らなければ私が彼女に出逢うという奇跡は起きなかった。そもそも、私が何年ぶりかで地元をおとずれなければならない所要ができなければ、私の肉体は地元には移動したりなどしない。地元に行っても商談を渋っていた相手が、電話やチームズの会議とは打って変わって簡単に同意してくれるということが起きなければ、私があの住所付近に行くことはなかった。私は相手との話に時間がかかることを想定し、それを計算にいれて帰りの飛行機便を予約していたのだ。

あの住所近くに行っても、あの店に入らなければ、なにも起きなかった。未来永劫、なにも起きなかった。起きないままに地球は50億年後に膨張した太陽に包まれて消滅していたはずだった。

その偶然の何重もの重なりがなぜか起き、私は彼女に遇った。

いったい人というものはどのくらいの時間をコーヒーショップで過ごすものか。年齢と性、それに時と場合によるだろう。73歳の女性にとっては?30分?もっと短い?長い?彼女のその特定の短い時間のうちに私は彼女のいる空間にたまたま入り込んだ。二人はすぐに互いを認めた。50年という長い時間がまったく無かったかのように、二人は微笑みあった。彼女が先ず私を見つけ、あの表情の崩れるような彼女らしい笑みを浮かべた。その上には、ごく簡単にうしろで止めただけの短い真っ白な髪がある。瞬間私は驚いた顔をして立ったまま言葉なく軽い会釈をした。そして「あなた、あなたなんだ」と声に出した。

それがすべての始まりだった。考えてみれば、私は彼女の結婚後についてはほとんど何も知らないのだ。

知っていることは、間接に高校時代の友人から聞いたことだけで、それも10年も20年も前のこと。「太極拳に凝っている」と言った男もいたし、「なんだか妙に年を取っちまったなあ。」と言う他の男もいた。姿かたちがすっかりが年とっちまったと教えてくれた男は、昔、50年よりももっと以前、「あれは男好きがするけえの」と彼女のことを評した男だった。Kという名の男だ。そういえばあの男も鬼籍にはいっているかもしれない。

あの初秋のたそがれ時、マンションから大きな財布を胸の前に抱えるようにして出てきた彼女は、後ろ手にドアを閉めると、男を導くように夜の京都の街中の小さな路地を選び選びしながら、先に立って急ぎ足に歩いて行った。男は京都の地理はほとんど知らない。緑のなかの細い道を八坂神社から南禅寺の近くまで行き、彼女の先導で地下のサパークラブのようなところに入った。インクラインという言葉と蹴上という地名を教えてくれた。その店で彼女はサントリーのオールドのオンザロック、未だ凍っていない穴が開いたままの氷で割ったオンザロックを飲み、まだ酒を飲む習慣のなかった私はコーラを飲んだ。勘定は私が払った。

「あの人と一緒に過ごした時間が大切な気がしてきたの」

彼女の言葉は、まさについ数週間前の夏の日の恋が消えてしまっているのだと私に告げていた。私も彼女も、そしてあの男も22歳。

結局、私は京都からその日の夜行の急行列車に乗って東京へ戻った。寝台車はなかった。寝台車でない、椅子にすわったままの京都から東京までの旅は、私にとって初めての、辛い経験だった。

その後、私はまったくの偶然で彼女に出逢ったことが一度だけある。50年前の地元は小さな街だったということだろう。地元の駅付近を歩いている女性の後姿を見かけ、私は一見して彼女だとすぐにわかり、近づいて名前を呼んだ。ショッキング・ピンクと緑色の太い横じまの、ニットのワンピースを着ていた。派手な色彩が通りを行く人々の目を引く。そういうところのある、むしろ得意に感じる女性だった。二人は当然のように喫茶店に入り、どちらも瞬く間に時間が過ぎるのを感じていた。格子模様の壁のある喫茶店だった。話の途中、彼女は今からどこかのホテルに二人で入ることを示唆した。

彼女は、近く結婚する予定なのだと言い、独り者だった男は好きだった女性が遠くに消え去ってしまうことを感じていた。

それにしても、私はどうして彼女の望んだようにホテルに入らなかったのか。好きだった女性からの誘いだったのに、どうして私は応じなかったのか。いや、その前に、そもそも結婚が間近だという彼女は、なぜ私と性行為をしようとしたのか。ひょっとしたら、あれは彼女が投げかけずにおれなかった人生で最後の賭けのダイスだったのではないか。突然目の前に現れた男が白馬の王子様か、それともロバに乗ったサンチョ・パンサなのか。

それなのに、つい数年前にあれほど彼女を求めた男は、なにも気づかないふりをして逃げてしまった。彼女にしてみればそういうことだったのではないのか。

その後、それぞれに子どもを儲けた老人同士にどんな関係、官能があり得るのか。どういう性であれば自己確認をすることができるのか。

「結局、男と女のことはわからないね。

でも、『墓場に近き 老いらくの 恋は怖れるなにものもなし』っていう歌知っているかい?

川田順という住友財閥の常務理事までした実業家で歌人の、27歳年下の人妻との不倫の恋を詠った歌だよ。彼は66歳だった。」

細野さんはこの長い話をしてくれたあと、流行り始めたハイボールを口に含んで、小さな微笑みを見せた。怒っている顔にも見えた。ウィスキーの残りを一気に飲みほすや、すっと席を立っていた。

格好いい人だなあと、常にも増して憧れる感覚があった。

それにしても、細野さんはなぜこんな話を私などにしたのか。吐き出さずにいられないなにかがあったのか。長い間?最近のなにかの出来事?

「ほう、赤坂新坂のパークマンションですか。それはそれは」

どうして大木が意味あり気な言葉をはいたのか、三津野にはわけがわからなかった。三津野は高野敬夫も大津紫乃も知らない。大木は知っている。よく知っている。二人がこのマンションでいつも会っていたことも知っている。

今日も三津野が大木を呼び出して、二人は会うことになった。

「たまにはメシを食おうよ」

最近では、そういって三津野が携帯で大木を誘うのが当たり前になっていた。たまでないことも多々あった。

「オークラの山里、とってある。明日の6時半でいいかな」

<聴いて欲しいんだよな。だって、三津野さんにしてみれば岩本英子とのことは誰にも言えやしない。気取られるわけにもいかない。でも喋りたい。喋って、のろけたい。わかる、わかる。

そこで、王様の耳はロバの耳だって言うことのできる相手が要る。大木弁護士さんならっていうことになるわけだ。よほど信用できる相手でないと、社会的に名声を有し、高い地位にある人間は個人的な秘密など決して口にはできないからな。

特に、大きな組織に君臨していた人間というのも不便なものなんだよな。

はいはい、どうぞどうぞ、拝聴いたしましょう。しかも、岩本英子さんは私にとっても赤の他人じゃあない方ですし>

 

「この間ね、英子が僕の誕生祝をしたいって言いだしてね」

<始まった>

「で、三津野さん、まさか『オレは誕生日なんて祝わないんだ』っていう、身勝手な暴論を吐いたじゃないでしょうね。ま、英子さん相手だ、三津野さんもそこまで無粋じゃないでしょうけどね」

もちろん大木は三津野がそう英子にそう言ったに違いないとわかっている。わかっていて、軽口をたたいてみせる。三津野は大木の反応に喜んで、

「それが、それなんだよ、イヤー参ったな、大木先生はなにもかもお見通しだ。」

相好を崩す。そこには滝野川不動産の中興の祖はいない。いるのは、同じクラスの同級生の女の子に恋してしまった少年だ。

「でね、英子さんは会社を作りたい、二人の子どもだなんて言い出してね」

「ええ、伺ってますよ、でも二人の子どもとは聞いていなかったなあ」

「そいつは二人だけの秘密だからな」

三津野は白髪のめだつ頭を少しもたげると、小さく、独り微笑んだ。

<この場は3人だな、英子さんがいつも三津野さんの横にいっしょにいる。>

大木は三津野の言葉を待った。

「でね、幻冬舎の『少数株主』っていう本を読んだっていうんだよ、彼女がね。」

「ほう、そりゃ素晴らしいですね。」

「うん、ここ、ここ」

三津野は文庫分を取り出すと、「ここ」と138頁を右手の人差し指で差し示した。

「社団法人にしようと思うんだ。」

「え?」大木は三津野の取り出した文庫本を手に取ると、その箇所に目を走らせた。

「そう、たしかに『社団法人にしろ。それがいい。社団法人は利益の配当ができない。』ってありますね。」

「だからさ、だから英子と僕との子は社団法人にしようと思うんだ。」

「で、社団法人なら父親である自分の名前が出てもいい、っておっしゃりたいんですか?」

「そういうことだ!いかがでしょうか、大木大先生」

三津野は機嫌がとてもいい時には大木のことを「大先生」と呼ぶのだ。今日の三津野はそれほどに上機嫌なようだった。

写真)イメージ

出典)krblokhin/GettyImages




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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