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.社会  投稿日:2024/2/16

平成29年の年賀状


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・毎日様々なことが起きていても、若い頃の方が新鮮だったように感じる。

・日常生活もそれなりに充実しているが、真にやりたいことが他にある気がしてならない。

・何をしても、死んでしまえば消えてなくなるのが人の世だ。

 

一〇年一日、または一〇年一昔。

昨年、紅茶を43年前から愉しんでいるとお伝えしました。今も飲んでいます。しかし、二口目からは牛乳を入れるようになりました。腎結石ができないようにです。もはや、あのストレートティーの香りを満喫することはありません。産業革命期のイギリス人が飲んだミルクティーを、淡々と飲んでいます。

人生かくの如し。

未だ元気にしています。それどころか、定期的にトレーナーについて運動を始めました。片足で椅子から立ち上がること、それが当面の目標です。体操が日常の一部になることなど、高校生のとき以来です。

やりたいこと、やるはずのことがたくさんあるのです

今、ここから先の時間だけが人生だと思って、毎日を生きています

どうか今年もよろしくお願いします。

この年の賀状で書いた「腎結石」がついに去年の尿路結石につながった。その詳細は別に書いている。7年前にみつかった腎臓の石がそのまま腎臓に張りついていて、レーザーで去年破砕されたということの次第である。衝撃波で割れなかったからカテーテルを使ってのレーザーになったのだが、それもこれも、結局のところ痛みを伴わないで石が体外に排出されたという意味では、なんとも幸運だったということなのだと思っている。

「ストレートティーの香りを満喫」していた日々の記憶は、いまもある。しかし、それを言うならアルコールでの酔いの日々のほうがよほど懐かしい。

最初に飲み始めたのは、大学時代、友人たちと秋の試験が終わったお祝いにと私のアパートで小さな酒盛りをした翌日のことだった。ウイスキーのサントリーセレクトが少し瓶のなかに残っていて、それを飲んでみたらとても美味しかったのだ。初めての経験だった。駒場時代のことだから21歳だったのではないか。そのウイスキーは一瓶700円だったと思う。

しかし、飲酒が習慣になったのは、本郷での朝の行政法の授業に出るためだった。8時半からの授業に間に合わせるためには7時半には起きなくてはならない。そもそも私には大学の授業に出席する習慣はなかったのだ。それどころか、そもそも大学に入った時にも、それ以前にも、大学で先生からなにかを習いたいという気持ちが薄かった。だから、睡眠薬代わりのアルコールということになった。

大学で法律を先生に習ったことがなくはなかったのは、星野英一教授の民法演習というゼミのようなものに出席したことがあることからわかる。他には鳳教授の手形小切手法の講義だけ。要するに面倒だったので気ままにしていたというだけのことだ。

6階建てのマンションの1Kに一人だけで住んでいた。月に2万9000円の家賃を、小岩に住んでいた郵便局のサラリーマンであるオーナーに払っていた。奥さんが更改契約にそのマンションまで来てくれたのを覚えている。その部屋で、好きな時に起き、自由に本を読んでいる生活。恋人がいて満たされた生活を送っていたのだ。

ただ、司法試験に合格しなくてはならないという強迫観念はいつもあった。もっとも、それとても東大受験のための日々に比べれば取るに足らないことだった。大学受験と違って苦手の数学がないのだ、合格は容易なことだと見くびっていた。

当時にはもう司法試験の準備のための教材は豊富で、独り、深夜、自分の部屋にこもって勉強しさえすればよいだけのことなのだ。なんとも気楽な生活、軽快な日々だったといってよいだろう。ラジオで『粋な別れ』という名の石原裕次郎の新しい歌が出たと聞き、さっそくLPレコードを買ったのもあのマンションでのことだった。

ずいぶん長い間あの要町のマンションにいた気がしているのだが、いま調べてみるとたった3年だけだ。結婚するのを機に引っ越したのだった。若いときにはつぎつぎといろいろなことが起きていたものだ

いまでも、毎日さまざまなことが起きているのは変わらないのだろうが、十年一日の感が強い。新しいことが起きず、それは感受性が鈍っているからというなにが起きても経験済みの月並みなことということになってしまうのだろうか。74歳のいまでも週単位で生きていて、息つく暇もないと感じるほどに忙しいのだし、若いころの方が時間が余っていたように思えるのだが、なにがどうなのか。

本は休みなく読んでいる。

産業革命はなかった、少なくとも革命と呼ぶに値する変化はなかったと何度か読んでいたのだが、最近も秋田茂氏の『イギリス帝国盛衰史』(幻冬舎新書)で確認した。『綿の帝国』(スヴェン・ベッカート 紀伊国屋書店)という800頁を超えるという、まことに分厚く重たい本の後に読んだ、これまた400頁を超える分厚い新書本である。

秋田氏によれば、「現在、歴史家は『The Industrial Revolution』という言葉は使わない。なぜなら「revolution/革命」と言う言葉が示すようなドラスティックな変化は実際には起きていないことが、イギリス経済史を専門とするニック・クラフツの研究によって実証されたからだ。この時期のイギリスの生産性は、実は100年ほどかけて、非常に緩やかに上がっていっているのだ。」とあった。(216頁)秋田氏は以前からそのイギリス史についての見識を尊敬している学者の方である。たとえば、『イギリス帝国の歴史』(中公新書 2012年刊)を刊行の1年後に読んでいる。ここでも秋田氏はクラフツに触れ、「トインビー以来の産業革命=一大変革説を、イギリス本国の経済史学界は大勢において否定することになった。」と述べている。(80頁)

秋田氏は私よりも9歳年下で、なんと広島県のご出身とあるからご縁があるようである。高校はどちらでいらっしゃったのだろうかと思ったりする。

「定期的にトレーナーについて運動を始め」、得意になって「片足で椅子から立ち上がること、それが当面の目標」などと書いてしまったら、「片足では立ち上がれないような大怪我をされたのですか?」という心配をしてくださった方がいた。そうか、この文章はそのようにもとれるのかとずいぶん勉強になった。反省した。文章は難しい。

ここ、へえ、「今、ここから先の時間だけが人生だと思って」なんて、しゃれたことを書いていたのかと自分に微笑んでやりたくなる。たった7年前のことなのだが、若い自分の書いた挨拶文のように滑稽だなとおかしくなるのだ。

歳を取るとね、面白いことなんかなくなるんだよ」と寅さんに向かって話していた諏訪飇一郎教授のセリフをいつも思う。志村喬が映画『寅さん』のなかで演ずる寅さんの妹さくらの義父である大学教授のセリフだ。そのとおりだという感慨が私のなかにもある。だからこそ、映画のなかで諏訪教授は自らを励ますように古文書探求に我が身を駆り立てていた。調べてみると昭和53年、1978年の映画のようだ。私が広島で検事をしていたときにあたる。しかし、この回に限らず、私は寅さん映画を映画館で観たことはない。だからこの回も初めて観たのがいつだかはわからない。

私もまた、諏訪教授の古文書漁りに似たものを持っているつもりだ

そんなことを考えていると、三井住友信託の高橋温さんが『私の履歴書』の29回目に「中年に達し、人に言える趣味の一つくらいは必要か、との理由で書を始めた。」と書いておられたのを思い出す(日本経済新聞令和5年10月30日)。40代半ばになってからだったそうだが、還暦を過ぎたころ石川九楊氏に出会い、指導を受けられるようになって「本気で取り組むこととなった。」ともある。高橋さんとは不動産証券化協会、ARESでのご縁でご厚誼をいただいている。先日もARESの懇親会でご尊顔を拝する機会があった。『私の履歴書』のなかに信託法の研究をされたと書かれていたことを申し上げたら、「なに、若いころのことだよ」と謙遜された。高橋さんのARESでのご挨拶は洒脱でありながらも意表を突き、なんとも面白く、興味深く、毎回いつも愉しみにしていたのだが、残念ながら最近は演壇に立たれることがない。

その会では、三井不動産の岩沙さんにもお会いすることができた。「歴史は個人が創る」という事実を、日本でのリート創設の一大事業を17年の間、脇から目の当たりに拝見し感得させていただいた方だ。2キロの体重の変化に注意深くあることですよ、と健康の秘訣の具体的方法も教えていただいた。81歳になられても、体形も迫力も少しも変わらない。

同じ三井不動産の菰田会長とは、菰田という姓についての話でずいぶんと盛り上がった。和歌山辺りから千葉に流れて来た人々が先祖ではないかという話に落ち着いた。

野村證券の古賀さんと三菱地所の杉山博考さんとには、あるお願いごとを申し上げた。杉山さんとは同年の生まれと知り、東大入試がなかったことなど話が弾んだ。ほかにも声をかけてくださる方、こちらから声をかけさせていただいた方が何人もいらした。こうした集まりはなるほど便利なものだと改めて感じさせられる

たまたま監事を仰せつかった協会でのお付き合いなのだが、さまざまな方の優れた謦咳に接する素晴らしい人生のチャンスだ。世の中が広く、たくさんの優れた人々が、それぞれの場所で社会を支えているのだと実感しないではおれない。当然ながら、自らの存在の小ささをいつも思い知らされる。

平社員1年生として会社に入り、その後たくさんの仕事をこなし、そして巨大な組織をリードするトップの立場に立つ。立てば、待ってましたとばかりその役割を意欲的にこなし、やがて次代に引き継いでゆく。

コーポレートガバナンスについて考え、書き、喋る機会の多い身だけに、勉強になる、身が引き締まる。

しかし、7年前の「やりたいこと、やるはずのこと」はこうしたことだったのかと自らに小さな声で問ってみると、少し違う気がしないでもない。一面では、現実にそれ以上のことが起きているようにも思われる。それでもそうした気持ちは消えない。ではいったいあの時にはなにがやりたかったのか。考えてみるが、どうにもわからない。一週間という区切りに追われる毎日を過ごしている身には、よくわからないままなのだろう。もっと他のなにか、と独りごちてみて、また鷗外の『妄想』に立ち戻る。

私の小説『あの男の正体』(幻冬舎文庫)で鷗外とシェークスピアに触れている。

主人公の男が恋人の房恵に向かって鷗外の言葉を引用して聞かせる。

 「勉強する子供から、勉強する学校生徒、仕事するサラリーマン、そして経営する社長、っていう人生だ。いつも鞭打たれ駆られてばかりいる。

 でも、そうしている自分の背後になにかがいるんじゃないかって思う。

 鷗外が言っている。

『赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後(うしろ)の何物かの面目を覗いてみたいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役が即ち生だとは考えられない。背後(うしろ)にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる』ってね。」

 房恵はもう一度座ると、「あの男」に問いかけた。

「陸軍省医務局長、軍医総監、つまり軍医として最高の地位にまで昇ったのに、そんなことを?

 いえ、そんな役人としての出世だけじゃない。鷗外って文学者としても素晴らしい仕事をしたでしょう。それなのに? なぜ?」

「その後はこう続くんだ。

『しかし、その或る物は目を醒まそう醒まそうとおもいながら、又してはうとうととして眠ってしまう』

 森鷗外60年の人生のうち、49歳のときの作品だよ。若かったころのドイツ留学の日々を思い出して、彼はそう書いたんだ。45歳で君の言った、軍医としての頂点に立って、54歳までそのポストにいた、その間に書いたわけだ。『妄想』っていう、小説ともエッセイともつかない、短いものだ」

「又しては?又しても?

鷗外はずっと、うとうととして眠ったままだったの?」

「いや、違う。

 鷗外は、日本で結婚するっていう彼との約束どおり、はるばるドイツから日本へやってきた恋人を、追い返してしまったんだ。たった1ヶ月で、だ。ドイツにいて二人で見ていた夢の続きは、日本にはなかったということなんだろうな。もっとも、そいつは彼の視点からの話で、エリスっていう年若いドイツの女性の立場からは、不条理なことが起きたということでしかない。あれほど優しかったリンタロウー――鷗外の本名は森林太郎というんだ、そのいとしい男が、その男の祖国に帰ったとたんに、別の男の顔をしていた。」

シェークスピアは、似たようなことをその作品のなかの人物にこう言わせている。

この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者に過ぎぬ」(『お気に召すまま』小田島雄志訳 74頁)

「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう」(『マクベス』同訳 162頁)

確かなことは、鷗外もシェークスピアも、もう死んでしまっていないことだけだ。

私にはわからない。74年余り生きてきて、やはり、まだわからない。

日常生活では目先の義務を果たすことを心がけてはいる。鷗外のいう『日の要』ということになる。

しかし、それだけでは生まれてきた甲斐がないような気がしてならないのだ。

結局のところ、鷗外は自らを「永遠なる不平家」と称するほかなかった。「どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。」と繰り返すほかなくなってしまった。

その鷗外が『元号考』を最後の作品にしつつ、完成することができないで死んだ。

その死の前後の様子にふさわしい言葉を、まったく鷗外と関係のないイギリスの小説家サマセット・モームがある短編小説のなかにこんなふうに書いている。

主人公は、偶然のきっかけで盛業中だったデトロイトでの弁護士稼業に見切りをつけ、カプリに渡り住んだ男だ。独身だったようだから、カプリに住んだことには性的な理由があったのかもしれない。もしそうなら、モームの性的思考が影響しているのだろう。カプリといえばそういう含意がある。

なんにせよ、その元弁護士はギボンやモムゼンに匹敵するローマ帝国の歴史についての大著作をものして大きな名声を獲得しようと夢見た。モームがこの小説を書いたのは鷗外が死んで10年も経たない1920年代のことである。

「十四年のあいだ、それこそ寸時も休まず刻苦した。かれの手になるメモの数は、とうてい数え切れないほどだった。・・・さて、いよいよ著述にとりかかることになった。じっくり腰をすえて書きはじめた。とたんに、かれは死んだ。」

「かれは生きていたころそうであったように、死んでからも、世間にたいしてはまったく無名な人間なのである。

にもかかわらず、私の眼からみると彼の生涯は成功だった。かれの生き方は、文句なしに完璧な姿なのである。つまり、かれは自分のしたいことをして、決勝点を眼の前に望みながら死んだ。そして、目的が達成されたときの幻滅の悲哀など味わわずにすんだからだ。」(『弁護士メイヒュー』(龍口直太郎訳 新潮文庫『コスモポリタンⅠ』21頁)

そんな小説を壮年時代に書きながら91歳まで長生きしたサマセット・モームは、90歳、まさに最晩年に、お抱え運転手の運転する愛用の古いロールスロイスのなかで、「おれの一生は失敗だった、・・・一生おれはあやまちばかりを犯して来た。みじめな生涯だ。何もかもめちゃくちゃにしてしまった。」と言わなければならなくなってしまった。目的が達成されたときの幻滅の悲哀なのだろうか。

モームにくらべれば、鷗外は早く亡くなったぶん、そうとうに幸福な人生を送ったということになるのだろうか。

江戸初期の武人で詩人であった石川丈山の造った詩仙堂を舞台にした『詩仙堂志』という中編がある。そのなかで加藤周一は、現代を生きている自分が詩仙堂で出逢った老人と丈山についてやりとりをしながら、

「老人の語るにつれて、私はほとんど詩仙堂に四季の移るのをみたように思った。雪の降ふりしきる夜、炉にくべた木の枝の燻り、釜の湯のたぎる音、春先の生暖かい風の肌ざわりや泉水に散る陽光のまぶしさ、夏の雲のあわただしい動きと、夕立の初めの埃の臭い、――しかし殊にその林と水と石の上に来たりまた去る季節を私自身がみてきたかのように想像した。そういう具合に庭ができあがっていたというべきか、それとも詩仙堂の日常を語る老人のことばに魅せられたというべきか。

「しかしそのすべてがその場かぎりで、消えて、二度とかえらないものだった」と私はため息とともに呟いた。

「人の命がその場かぎりのものさ」と老人はいった。

「しかし石川丈山は庭をつくった。その庭は今でもここにある。」

・・・

「たしかに今も庭がある」と老人はいった、「ということも、今では丈山となんの関係もない。丈山はもういない。

・・・

丈山はみずから思うところに従って生きた。その丈山は死して後、どうなったか。

「人は死んで天地に還る」と老人は事もなげにいった。(『三題噺』筑摩書房1965年刊所収の『詩仙堂志』1964年雑誌『展望』初出)

そういうことなのだろう。

加藤周一はあとがきのなかで、石川丈山についての中編を「日常生活の些事に徹底した男の話である。」と記している。

なるほどと思って長い間わたしは過ごして来た。しかし、鷲巣力氏の『加藤周一はいかにして「加藤周一」となったのか』(岩波書店2018年刊)の第5章『羊の歌に書かれなかったこと』を一読して仰天した。

加藤氏はフランスへ行く前に結婚していて、イタリアで知り合ったオーストリア人の女性と結婚の約束をしていながら、日本に帰国し、妻の守る西片町の自分の家に戻って以前のとおり暮らし始めたのである。そこへオーストリア人の女性が訪ねてき、「私たちの結婚の約束を履行してください」と宣言したからなのである。加藤周一が上野毛に住むことになった。離婚調停は数年かかったという。それはそうであろう。

つまり、半生を語った自伝であるかに思われる『羊の歌』は、肝心のところでとんでもない虚構に貫かれているのである。

しかし、加藤周一ももういない。

そうなのだ。誰もかれも死に、死ねばなにもかも消えてなくなるのが人の世なのだ。

石原慎太郎さんが『「私」という男の生涯』に書き遺したとおりだ。

それでも、天国ではなく、この世で、見城徹さんが律儀にも石原さんとの約束を果たして発行した。その文章が、生きている人間の心を乱す。

なに、いくら乱されたところで、私もそのうちいなくなる。虚無に戻る。誰も同じこと。

問題は、未だ生きているということなのだろう。そう思っている。

トップ写真:イメージ(本文とは関係ありません)出典:Stefania Pelfini, La Waziya Photography /Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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