ニューヨークの9月、失われた記憶と向き合う

柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)
【まとめ】
・アメリカ同時多発テロから24年、当時の映像や検証動画をSNS時代になり多く目にするように。
・ニューヨーク生まれの子どもたちは、知識として勉強していてもリアルは全く知らない。
・後世にどう生の声として伝えていくか、改めて模索して行きたい。
ニューヨークでは、9月を迎えて、誰が言わずとも、重い空気が漂い始めてるのを感じているのは、私を含めてニューヨークの人々の間でも、どのくらいの割合の人たちでしょうか?
あの日、ニューヨークにいた、私にとって9月は重い月です。
事件から時が経ち、同時多発テロ事件当時は表に出てこなかった映像が、SNS時代になってきた今になって、たくさん見かけるようになり、事件当時は知らなかったこと、見たこともなかった映像や、検証動画を多く目にするようになりました。
反面、事件からは24年もの日々が過ぎ、事件があった時、まだ生まれておらず、事件そのものを知らなかった世代がおとな世代になって来ているせいか「9/11は茶番」「9/11は陰謀」という今までもあった意見に加え、驚くことに画像加工ができるAI時代を反映してか「9/11はなかった」との主張も見かけるようになりました。

▲写真 倒壊したツインタワー間の広場にあったモニュメント「ザ・スフィア」。崩落したビルの残骸の中から発掘された。激しく損傷しながらも原型を留めている。屋外にある、事件を語る象徴物としては唯一の存在。(筆者撮影)
私は、毎年この日が来ても、24年もの歳月を凡凡と流してきました。
取材で得た心の傷も大きく、個人的な思いで、事件とは距離をおいてきたように思います。
ですが、その後、プライベートでは、子どもも授かり、24年が過ぎた今日、考えることが増えました。
取材で走り回った当時、炎上するワールド・トレード・センターのビルを見て、ビルの崩壊をこの目で見た経験は、このまま、自分の中で終わらせてしまっても良いのか?
近年の画像解析技術で、当時はわからなかった炎上するビルの窓から必死で助けを求める人々の映像もSNSで見かけるようになりました。一部では、映像に写っているそれぞれの個人をある程度特定出来ているケースもあり、24年後の技術には驚くばかりですが、事件当時、テレビの取材で駆け回っていた自分には、それら、犠牲になった方々への思いが欠如していた、と言わざるを得ません。
ひとりひとりの人生が、あの残酷な事件で無理やり終わらされてしまった。
一部ではあるけど、映像に写っているその個人が特定された結果、それぞれの人々が亡くなる最後の凄惨な時間が写されていた事になり、かなり残虐な印象を受けます。
解析された映像によってその人達は「亡くなった3,000人近くの人々のひとり」ではなく、尊厳ある1人の人間と確実に認識されることになったものの、ご遺族にはたまらない映像だと思います。
自分が爺になった今、当時の自分の仕事への姿勢が正しかったのか、およそ四半世紀後の今、過去の自分へ、反省すべきことは無いのか?と9月は自らを問う月となっています。
話は、いきなり変わりますが、先の大戦を知らない自分が生まれたのは、終戦の1945年(昭和20年)から17年後の1962年(昭和37年)でした。4歳下の弟は1966年(昭和41年)、大戦から21年後の生まれです。
自分が物心ついた頃はもう昭和40年代になっており、昭和39年にあった東京オリンピックすら覚えていません。
東京の街の、私の1960年代の記憶は、都心の行く先々での道路工事、ビル建設の風景と、道路を走る都電と、天を埋め尽くすかのような、都電の架線と交通渋滞でした。
超高層ビル建築などはさらに10年あとの時代です。それでも戦後からたった20年しか経っていないとは思えない、世の中のせわしなさは、子供心にも、イケイケドンドン、の印象しかありませんでした。
とは言え、都心の人が多いところには、どこでも気がつけば、まだまだ戦争の傷跡がありました。
母が好んで行った銀座や、有楽町のガード下などには、傷痍軍人の人が多くいました。ハーモニカの音に続く「右や左のだんなさま」。
道端で土下座していた、旧日本軍の軍帽を被った傷痍軍人の人たちのほとんどは、足か、腕がありませんでした。
「あの人達は何?」
未就学児だった自分は疑問に思いながらも、ついぞ、父にも母にも聞くことは出来ず、父も母も、その話題を避けるように、私は大混雑の国電に引っ張り込まれ家路についた気がします。
あのひとたちは、先の戦争で傷ついた人たち、ということだけは理解できていたけれど「戦争」そのものは実際どういうものであったか。白黒テレビで時折流れる、かっこいい戦争映画でしか、イメージすることが出来ず、街角の傷痍軍人の人たちとはイメージが繋がりませんでした。
父は大正15年の東京台東区生まれで、東京大空襲を経験しています。
母は、昭和9年、長野県下諏訪の生まれ。
大戦中はティーンエイジャーだった父、小学生だった母。
父からは、台東区の下町にあった父の実家は、東京大空襲ではぎりぎり焼夷弾の攻撃から免れることができて家は焼け残ったこと。
母親からは、下諏訪駅裏の生家前の道が、戦車が通れるように、と道路拡張で実家の一部をを軍部の強権で取り壊されたこと、戦況が怪しくなってきてから戦後にかけて、疎開した先から、コメやら芋やらを親族兄妹とリュックに背負って、列車で帰ってきたことなどを、なにかの話のはずみで聞いたことがありましたが、大戦にまつわる話はそれしか聞いたことがありませんでした。
両親とも戦時の話は聞くな、というオーラを常に発している気がして、ついぞ、戦時中の他の話は聞くことができませんでした。
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話は現代に戻ります。
我が息子は、2013年(平成23年)にニューヨークで生まれました。
娘は2017年(平成27年)の、やはりニューヨークで生まれ、兄より4歳年下なのは、私と、私の弟の年の差と一緒です。
ニューヨーク生まれでありながら、当然、子どもたち二人は、24年前の9月にニューヨークで起きたことを知識としては勉強していても、この地で何があったかのリアルは全く知らない。
大戦の17年後に生まれた自分が、戦争で焼け野原になった東京を全く知らないのと同じです。
私は、世界大戦も、ヒットラーも、トルーマンも、ルーズベルトもチャーチルも、スターリンもはるか過去の歴史の一部でしかない、と思っていました。ですが、自分が生まれたのは「終戦からたった17年後」だったのです。
今から17年前、みなさんは何をしていましたか?
東京が焼け野原になってからの17年後に生まれ、年10%という高度成長率を遂げた時代に子供時代を過ごしていた自分は、戦争の片鱗すら感じることはありませんでした。
ニューヨークのテロから今年で24年目。

▲写真 自分が良く通ってた飲み屋に来ていた、銀行にお勤めだった常連さんたち。「最近来ない」と呟く店のオーナー。みなさんが亡くなられたことが後に判明して、店のオーナーと一緒に泣いた。(筆者撮影)
私が生まれて、たった17年前の大戦のことが遠い歴史の一部としか感じられないのと同じく、ニューヨークで生まれた若い世代にとっては、それはもう遠い過去の歴史の一部としか感じられないのでしょう。
あの時、テロ現場で灰を被りながら取材を進めるうち、事件の背景が日々、明らかになるに連れ、世界の秩序がぼろぼろと崩壊するのを肌で感じました。
「今日からはもう、決して昔の世界に戻ることはないね」
と取材仲間に呟いた自分の言葉を、今でもずっと覚えています。
本日、まもなく事件の日を迎えるに当たり、ワールド・トレード・センターの跡地に赴き、一連の事件で犠牲になられた、記念碑に刻まれた2,977人のお名前のすべてを1時間以上かけてかけて拝見してきました。
「We Never Forget」
私も死ぬまで忘れることは無いでしょう。
犠牲になられた方々の御冥福を改めてお祈りするとともに、あの経験を、後世にどうやって生の声として伝えていくか、改めて模索して行きたいと思います。

▲写真 トランプ大統領が「よこせ」と言っている「911メモリアル博物館」。ホークル・ニューヨーク州知事は「9/11メモリアルはニューヨーカーのものです。20年以上にわたってこの遺産を継承し、決して忘れないようにした家族、生存者などの人々のものです。この神聖な場所に干渉する前に、大統領は生存者を称え、犠牲者の家族を支援することから始めるべきです」と語った(筆者撮影)
トップ写真:テロから24年後の現場では、犠牲者の名前が刻まれた碑に花が添えられていた(9/8筆者撮影)
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この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー
1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

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