鉄とアメリカ(3)~NY在住の爺カメラマンが見る、ナチスによるニューヨーク攻撃計画の痕跡(上)「潜入」

柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)
【まとめ】
・1917年、ニューヨーク市に「ヘルゲート・ブリッジ」が完成。
・ナチス・ドイツの諜報機関「アプヴェーア(Abwehr)」によりヘルゲート・ブリッジ破壊工作が立案、実行。
・Uボートでニューヨーク市の北東、イースト・ハンプトンから潜入。
今から108年前の1917年に、ニューヨーク市の、イーストリバーにかかる「ヘルゲート・ブリッジ」と言われる橋が完成した。
この橋は完成当時「鉄橋として世界最長のアーチ橋」とされ、鉄橋の建設には先住民「モホーク族」の人々が多く関わった橋である。(モホーク族の鉄工については前項「鉄とアメリカ(2)」をご覧ください)
この橋の建設はモホーク族の鉄工職人がニューヨークで一番最初に手掛けたプロジェクトでもある。
橋の完成により、北のニュー・イングランドから、ニューヨーク市を経由して、ニューヨークの南の都市との間で、鉄道による、物資の大量輸送が可能となった。
第二次世界大戦中には、この橋は、鉄などの資材、武器、軍事物資の輸送などにはますます欠かせない重要な存在となった。
それに目をつけたのがナチス・ドイツであった。
■「ニューヨーク・ヘルゲート・ブリッジ爆破計画」
「ニューヨークの鉄道橋を破壊し、つづくテロ活動により、アメリカを混乱に陥れよ。鉄道、水道、工場、貯水池、発電所などのインフラを破壊し、ユダヤ人が経営する店などに対してテロ行為を行え。」
1939年のワルシャワ侵攻、1940年の大空襲で燃えるロンドン。
ヒトラーは、これらの戦時フィルムを執務室で鑑賞し、大いに楽しんだという。次はマンハッタン上空に爆撃機を飛ばし「炎で燃え盛るニューヨークの高層ビル群」を見たいという野望を抱いた。
ヒトラーの夢を実現すべく、ナチス・ドイツの諜報機関「アプヴェーア(Abwehr)」により、アメリカに対して、破壊工作が立案され、作戦が実行に移されたことは余り知られていない。計画を立案したのはアプヴェーアIIのウォルター・カッペ中尉であった。カッペはアメリカ在住歴が長く、具体的な計画を立てる中心的立場であった。
ときは、日本軍の真珠湾攻撃があった半年後の、1942年6月であった。
アプヴェーアによって計画された作戦はカッペによって「パストリアス作戦(Unternehmen Pastorius)」というコードネームがつけられ、破壊工作の具体的な計画が練られた。作戦の実行にあたっては、12人が候補に選ばれ、最終的には特殊訓練を受けた8人が工作員に選抜された。
8人は全員、ドイツ生まれであったが、皆、長くアメリカに居住した経験があった。全員がアメリカで働いた経験もあり、アメリカの文化に精通し、英語が堪能であった。しかし、全員がナチス党員か「ドイツ系アメリカ人連盟(German-American Federation、親ナチス・反ユダヤの右翼団体)」のメンバーであった。だが、そのうち2人は市民権をもった「アメリカ人」でもあった。
8人のメンバーのうち、一番の年長者で、リーダー格のジョージ・ダッシュ(George Dasch、39才)は、戦前にアメリカに不法入国(1922年に貨物船に紛れて密航)していたが、どう、とりつくろったのか、アメリカ陸軍に勤務していた経験があった。
その後、陸軍を名誉除隊し、除隊後は、アメリカ各地でウエイターとして働き、結婚して子どもまで授かったのだが、妻子を捨ててひとりでドイツに戻ってしまった。ドイツに戻った後、アプヴェーアに長年のアメリカ居住の経験などを買われて、この作戦に採用された。
もう一人、ダッシュの相棒とも言うべき存在であった、アーネスト・バーガー(Ernest Peter Burger、36才)という男がいた。彼も、戦前にアメリカに移住していたが(1927年)、アメリカの市民権を獲得した「アメリカ人」だった。
「アメリカ人」となっていたバーガーは、アメリカに移住して、以降、やはり軍隊に勤務していたが、世界大恐慌の影響で、食うもままならなかったためか、その後はドイツに戻っていた。ドイツ帰国後になぜか、ゲシュタポ(Gestapo、 ドイツ秘密警察)を批判する論文を書き、それが元で強制収容所に17ヶ月入れられたという。その後徴兵されたが、審査でアメリカにいた経験を買われ、アプヴェーアに採用された。
8人のうちで最年少、当時22歳のハーバート・ハウプト(Herbert Hans Haupt )はドイツ(ワイマール共和政)生まれではあったが、幼いときに両親がアメリカに移住、帰化したことでアメリカ人となった。
ハウプトは1941年、21歳の時、アメリカのパスポートを持たないままアメリカからメキシコに出国してしまい、アメリカに帰国しようとした際、アメリカ市民の身分を証明できず、アメリカに戻れなくなってしまった。
ドイツで生まれたハウプトは、そこで、メキシコ・シティーのドイツ大使館に向かい、そこでドイツのパスポートを発行してもらうことが出来たのだが、ドイツのパスポートでアメリカに入国するのは都合が悪かったのか、その後の成り行きで、戦前の日本に向かう船に乗り込んだ。
そして、航海の途中で、フランス行きのドイツ商船の仕事を見つけ(当時のフランスはすでにナチスに占領されていた)、船を乗り換え、フランスを目指した。たが、そのタイミングで真珠湾攻撃が起き、世界情勢は一気に変化していた。
乗っていた船がフランスに近づいた時、ハウプトは「船がイギリスを封鎖した作業」に顕著な貢献をした功績をナチスから称えられ、後に勲章を授かった。その時の働きがアプヴェーアの注意を引き、対アメリカ工作員として働くように勧誘された。
後にハウプトが語ったとこによれば「誘いは引き受けたが、引き受けた理由は、両親がいるアメリカの実家に戻るためだけ(の理由)だった」と言う。
上記3人と、工作員に選ばれた他の5名を加えた8人は、ベルリン近郊のクエンツゼー(Quinzsee)にある国防軍司令部で、破壊工作に必要な爆発物、起爆装置、化学的、電気的な知識を叩き込まれた。最終的に8人の選抜を承認したのはアプヴェーアのカッペ中尉であった。
偽造出生証明書、偽の運転免許証、アメリカの徴兵延期証明書のほか、2年に見込まれるテロ活動資金として、175,000ドルの現金(引用a)(現在の貨幣価値で3億円以上)を渡され、1942年5月26日と28日に、すでにドイツに占領されていたフランスのロリアン(Lorient)にある潜水艦基地から、Uボート潜水艦2隻で二手に分かれて、8人はアメリカに向けて出発した。
写真)工作員8人のうち6人。上段左からダッシュ、ヘンリック、クイリン、下段左から、ティール、バーガー、ノイバウワー
出典)Bettmann by Getty Images
■ 2隻のUボートでアメリカへ〜U-202潜水艦で潜入した「ニューヨーク・チーム」
2隻のUボートには、予定される2年の破壊活動に必要な爆薬や装置などが満載されていた。
ダッシュが率いる「ニューヨーク・チーム」4人(ダッシュ、バーガー、H・ハインク(35)、R・クイリン(34))は、1942年6月13日(土)深夜0:10頃、U-202潜水艦でニューヨーク市の北東、ロングアイランド東端の高級別荘地イースト・ハンプトンへ到着した。
彼らの、標的はすでに決まっていた。
ニューヨーク市を通り、南北の都市を結ぶ鉄道にかかる橋「ヘルゲート・ブリッジ」を破壊し、その後は、ナイアガラの水力発電所、イリノイ、オハイオ、ペンシルベニアの化学工場、ペンシルベニアのダムを破壊する。
インフラを中心に実害を与え、恐怖の波をアメリカの市民の間に広め、士気を削ぐ計画だった。
戦後に出された、イギリスの情報機関、MI5の資料によれば、大きな破壊工作の合間には、ユダヤ人経営の店や会社を狙った、小規模な爆発や火災を起こしたりすることも指示されていたが「必ずしもドイツの利益にならない」とのことで、恐怖を煽ることに重点を起き、可能な限り死者を出さないように、も命じられていたとのことであった。
「ニューヨーク・チーム」は2週間以上の航海を経て、Uボートで、イースト・ハンプトンの上陸現場に無事到着した。だが、そこで想定外のことが起きた。
H・リンドナー艦長率いる、U-202潜水艦は、到着時に海底の測量を誤り、目標地点の沖合200メートルの浅瀬に乗り上げ、座礁して動けなくなってしまったのである。
巨大なクジラが横たわるがごとくのその姿は、昼間ならば容易に陸から視認できる距離であった。
それでも4人の工作員は潜水艦から脱出、ゴムボートで砂浜に上陸したが、大慌てで脱出したため、リーダーのダッシュは暗闇の中、ボートから転落して溺れかけてしまった。
彼らは全員、万が一、捕まった時のことを考えてドイツ海軍の制服を着ていた。それは、スパイではなく戦争捕虜としての扱いを受けるため(スパイは死刑になる可能性が高い)の対策であった。
とりあえず上陸した4人は、発見もされることもなく、制服を脱ぎ捨て、準備していた私服に着替えた。そして、今後、予定される2年にわたって使用する爆発物などを詰めた4つの木箱と、脱いだ海軍の制服を砂丘に埋める作業にとりかかった。木箱はもちろん、後に回収する予定だった。
作業を始めて30分くらい経ったころであった。
ダッシュは暗闇の中、いきなり背後から声をかけられた。
「おい、あんたら何をしているんだ?」
声の主は、ジョン・カレン(John C. Cullen)という21才のアメリカ沿岸警備隊員であった。カレンは非番で、たまたまビーチを散歩していたのであった。
写真)4人を発見した沿岸警備隊のジョン・カレン甲板長補佐沿岸警備隊員(21)(左)彼は後に勲章を受ける
動揺して血の気が引いたダッシュは、ずぶ濡れのまま、流暢な英語でこう言った。
「いや、実は漁をしてて船が座礁しちまって」。
漁師を装った。
しかし、深夜12時の漁は明らかに不審すぎる。しかも、のこりの3人の男たちは、なにか外国語で話していた。
非番とは言え、職務上の必要性を感じたカレンは、ダッシュらに、とりあえず、沿岸警備隊の事務所まで来るように言ったが、観念したダッシュは、カレンの手を取り、ポケットから出したずぶ濡れの現金260ドル(引用b)を、無理やり押し付け「これで楽しく過ごしてくれ。ここでのことは見なかったことにしてくれ(Take this and have a good time. Forget what you’ve seen here.)」(引用c)と言った。
当時の260ドルは、今で言えば50万円以上の価値がある。
現金を握らされたカレンは唖然とした。これが何を意味するか・・・・
拒否すれば・・・・・カレンはとりあえずその場を取り繕うために、ダッシュの申し出を受け入れることにした。カレンは非番で丸腰。武器を持たなかった。多勢に無勢、4人対1人。
ダッシュら4人の工作員はカレンに無理やり現金を押し付けると、現場を逃げ出した。
武器を持っていなかったカレンは彼らを追いかけることが出来なかった。
携帯電話もない時代である。すぐさま、カレンは走って警備隊の事務所に行き、応援を求めたものの、田舎の事務所であったため、沿岸警備の捜索隊がやってきたのは夜が明けてからであった。
やってきた捜索隊は砂浜から、ドイツ軍の制服、爆薬などを発見した。
ダッシュら4人は慌てて逃げ出したため、それらを完全に埋める時間がなく、埋めようとしていたものはすべて発見されてしまった。すぐさま、事態はFBIに報告され、捜査網は一瞬にして全国に広げられることとなったが、ナチスのスパイ工作員4人はすでに、列車に乗り、市民に紛れてマンハッタンを目指していた。
トップ写真)1917年(大正6年)に完成した、ニューヨーク市イーストリバー、ヘル・ゲートにかかる「ヘルゲート橋」全長310m。当時、世界最長の全鋼鉄製のアーチ橋で、第2次世界大戦中にナチスドイツによる爆破計画の標的となった。奥に見える橋はクイーンズ・ボロ橋(筆者撮影)
参考資料引用元)
a)
When the Nazis Invaded the Hamptons | HISTORY
Web版・本文52行目
b)
When the Nazis Invaded the Hamptons | HISTORY
Web版・本文19行目
c)
Terrorists Among Us (1942); Detecting the Enemy Wasn’t Easy Then, Either – The New York Times Web版・本文35行目
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この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー
1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

