鉄とアメリカ(3)~NY在住の爺カメラマンが見る、ナチスによるニューヨーク攻撃計画の痕跡(中)「ナチスの破壊工作員はニューヨークに潜入した」

柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)
【まとめ】
・NYチームはジャマイカ駅、フロリダチームはフロリダ州ポンベドラ・ビーチに到着。
・ハウプトとカーリングは秘密の任務を周囲に明かしてしまう。
・ダッシュは自首してアメリカへの亡命を決意。
(上、からの続き)
ダッシュらを4人の工作員を降ろしたのは良いものの、Uボート潜水艦は、座礁し浅瀬でもがいていた。
このままでは、明るくなればすぐ発見されてしまう運命にあった。
しかし、幸運なことに朝方にかけて潮が満ちてきたのである。Uボートのリンドナー艦長は、この機を利用して夜明けまでに現場を離脱することに成功し、帰路につくことができた。
途中、このUボートは、帰りがけの駄賃、とばかりに、大西洋で出あった、アルゼンチンの蒸気船「リオ・テルセロ」と、乗員乗客381人を乗せたアメリカの旅客船「シティー・オブ・バーミンガム」を魚雷で攻撃、撃沈、している。
ダッシュ(工作員のリーダー)を筆頭とするスパイ4人は、海岸からヒッチハイクで、最寄りのロングアイランド鉄道の、アマガンゼット駅まで行って夜を明かし、通勤客に紛れて、朝6:57分発のジャマイカ行きの列車に乗った。(引用a)
4人は、終点のマンハッタンまで行かなかった。終点まで行けばFBIが待っているかもしれない。過去にアメリカに在住していた経験がそう言わせたのかも知れないが、そこまで考えていた割には、緊張からか、ダッシュは作戦の機密書類を列車に置き忘れてくるという取り返しのつかない失態を犯してしまっていた。
彼らは、現在の「ジョン・F・ケネディー国際空港」に近い「ジャマイカ」という地域の駅で降りた。
この地域は、多くの外国からの移民がいて、目立たず、人々に紛れるにはもってこいの場所ではあったが、現在でも、ここは移民や庶民が多く暮らすエリアで、ドイツ語訛りの英語を話す4人がいても、目立たなかったと思われる。
4人はジャマイカの庶民的な商店街の店で、目立たないような「高くもなく、みすぼらしくもない」服を買った。
その後、彼らは「ダッシュとバーガー」「ハインクとクイリン」の2チームに分かれて行動した。
「ハインクとクイリン」は地下鉄に乗って、マンハッタンのミッドタウンへ行って、メーシーズというデパートで追加の買い物をした。
「ダッシュとバーガー」の2人もマンハッタンに向かい、ペンシルベニア駅の斜向かいの「ガバナー・クリントン」というホテルにチェックインした。
■ U-584潜水艦で潜入した「フロリダ・チーム」
一方、フランスを出発したもう一隻のUボートU-584潜水艦で、アメリカに向かっていた「フロリダ・チーム」は、33才のE・カーリングという工作員が率いる4人(カーリング、ハウプト、H・ノイバウアー(32)、W・ティール(35))のグループで、6月17日に、フロリダ州の都市、ジャクソンビルの南のポンベドラ・ビーチに到着した。
上陸はNYチームにあったようなトラブルもなく手順通り進み、カーリングらは、着ていたドイツ海軍の制服を脱ぎ捨て、運んできた爆発物などとともに、ビーチの砂に埋め、その後、国道まで歩き、ジャクソンビル行きのグレイハウンド・バスに乗り、4人は別れた。計画の出だしは順調だった。
しかし、メンバー最年少、22歳のハウプトは、すぐさま、両親が住むシカゴ行の列車の切符を買って、真っ先に両親とガールフレンドに会いに行った。
「父さん、母さん、帰ってきたよ!!」
突然いなくなったはずの息子が「突然」眼の前に現れた両親の驚愕は、想像するに難くない。
ハウプトは両親に言った。
「僕は、今、ドイツのために(スパイとして)働いているんだ!!」
そして、「任務に必要なんだ。スポーツカーじゃなきゃだめなんだ。かっこいい黒のポンティアックを買ってくれ」と両親に無心した。
若気の至りか、国家を背負った秘密工作員としては、あまりに自覚が足りなかった。「作戦に参加するのは、アメリカに帰る目的のためだけ」と彼が後に語ったのは本当だったようだ。
加えてハウプトは、アメリカ出発前にもやらかしていた。
Uボートでアメリカに出発する前に、ドイツ占領下のパリのバーで泥酔して「おれはスパイでアメリカに行くんだ!おれはスパイなんだ!」と周囲に吹聴しまくっていたという。
秘密の任務を周囲にバラしてしまったのは、若いハウプトだけではなかった。
「フロリダ・チーム」のリーダーであったカーリングも、アメリカ上陸後、作戦のため向かった先で、古い友人に会った時「これは秘密だぞ。俺は今、ドイツのスパイとして働いているんだ!」と、話してしまっていた。リーダーであったのに、である。
ハウプトと、カーリングに秘密を明かされた関係者は、全員、もらい事故も同然で、勝手に秘密を明かされた結果、後に裁判で重罪となり、服役することになる。
■ 裏切り
「ニューヨークチーム」の4人は、その日、ダッシュと、バーガーがチェックインしたホテルから1ブロック離れた「Horn & Hardart Automats」というニューヨーク市内に何十軒もあったチェーンのレストランで落ち合い、食事をした。(引用b)
この店は現在で言えば、ビュッフェ形式のフードコートのような場所で、スパイ4人が集まっていて良からぬことを話し合っていたとしても、おそらく目立たなかったと思われる。
その翌日の6月14日(日)は潜入2日目である。
彼ら4人は、マンハッタンのアッパー・ウエストサイドにある、故グラント大統領の巨大な墓の前に集合した。
ここは現在でも、観光名所でもあるグラント大統領の大きな霊廟である。向かいには「サクラ・パーク」という、春には、その昔、日本から贈られた桜が咲き誇る小さな公園がある。
写真)「サクラパーク」から見た、4人が密会したというグラント大統領の霊廟。冬なので人がまばらだ。(筆者撮影)
6月のその日は多くの観光客がいたという。ハインクと、クイリンの2人は観光客に紛れてダッシュと、バーガーを待った。
遅れてきたダッシュとバーガーを交えた4人は、東方向のコロンビア大学へ向けて歩きながら今後について話し合ったが、話は紛糾した。
議論のなかで、一番現実的な考えをもっていただろうダッシュは言った。
「聞け。この作戦はきっとうまく行かない。」
昨日のビーチでの出来事は、どう考えても失敗であったことは誰の目から見ても明らかであったからである。実際のところ、ダッシュの判断は正しかった。
すでに、ダウンタウンの連邦裁判所の地下では、FBIの分析官によってビーチで発見された爆発物などの調べが進んでいたし、FBIの「前代未聞の巨大捜査網」も敷かれつつあった。そして「ドイツのスパイが密入国したらしい」という話は、もうこの時すでに、ルーズベルト大統領の耳にも届いていたのである。
しかし、FBIは、FBI内部にさえ、まだ情報を秘匿しており、捜査は水面下で進められていた。
政権も、世間のパニックを恐れ、ドイツの工作員潜入の情報を世間には公開しなかった。半年前には日本軍の真珠湾攻撃があったばかりで、国民の動揺を考えれば無理からぬことであった。
写真)スパイ4人がチェックインした「ガバナー・クリントン・ホテル(現在はStewart Hotel)」この場所はペンステーション駅の前(筆者撮影)
その日の夜のことだった。
バーガーは、ホテルで、ダッシュの部屋に呼び出された。
「話がある」
バーガーがダッシュの部屋に入ると、部屋の窓は開け放たれていて、外の騒音が部屋に鳴り響いていた。
ダッシュはバーガーに自分の考えを伝えた。
「俺は、この計画はうまく行かないと思う。昨日の出来事できっともうFBIは動いている。だったらFBIに自首したほうが賢明だ。俺は決めた。おれは自首してアメリカに亡命する」
「祖国を裏切るのか?」
「お前にだから言うが、俺はナチズムが嫌いだ。俺は、もうこのテロ計画を実行するつもりはない。お前はどうだ?一緒に自首しないか?」
ダッシュは続けた。
「言っておくが俺の計画を聞いてしまったお前には選択肢がない。お前が拒否すれば、俺はお前を殺す。そして俺は部屋を出てゆく。ドアから部屋を出て行けるのは、お前か、俺の1人しかいない。どうする?」
ダッシュは妻子を捨ててドイツに戻ったにもかかわらず、アメリカ生活が誰よりも長かったせいか、驚くことに実はナチスを憎んでいた。
バーガーはバーガーで、ドイツでゲシュタポを批判し、収容所に入れられた経験があった。素性を知っていたダッシュは「実はバーガーもナチに批判的であるのではないか」と見込んでの告白であった。ダッシュは一か八かで、バーガーを巻き込むことに賭けた。
「殺す」とまで言われたバーガーには確かに選択肢はなかった。拒否して、殺されるか、争ってダッシュを殺すことになったら、作戦どころではない。バーガーは、ダッシュの提案をその場で受け入れた。
ダッシュは事態が一刻を争うと判断していた。チームの残りの2人すら信用していなかった。ダッシュは、バーガーに「2人を見張ってろ」と命じて、アッパーウエストサイドの公衆電話から、FBIのニューヨーク事務所に電話をかけて、計画を白状し、自首した。
「俺の名前は”パストリアス(作戦のコードネーム)”と言う。ドイツのスパイだ」
ところが・・・
電話を受けたFBIの相手の係官は「はいはい、ご苦労さん(笑)」とばかりに、まったくもって話を真剣に聞いてくれなかったのである。
上陸したビーチでの出来事や、計画の詳細を説明したものの、話の内容が、あまりに荒唐無稽すぎて、いたずら電話としか思われなかった。
FBIには、半年前の日本軍の真珠湾攻撃以来、多くの偽情報や通報、いたずら電話が毎日何件もかかってきており、その一つと思われてしまったのである。そして何より、電話を受けた係官は「スパイ潜入」の情報を知らされていなかった。
ダッシュが「お前じゃ話にならん。フーバー(エドガー・フーバーFBI長官)と話をさせろ。大事な話なんだ」と言ったことで、とうとう電話を切られてしまった。
一方、ダッシュのただならぬ雰囲気に危ないものを感じたハインクとクイリンは、ホテルをチェックアウトして、翌日、West 72丁目のブロードウェイに新たに借りた部屋に移った。
2人の勘は正しかった。
その後のダッシュの単独行動で、ついにルーズベルト大統領まで動いた。
彼らは、今から望んでも、もう、後に戻ることはできなかったのである。
参考資料引用元)
a)
Terrorists Among Us (1942); Detecting the Enemy Wasn’t Easy Then, Either – The New York Times Web版・本文42行目
b)
Terrorists Among Us (1942); Detecting the Enemy Wasn’t Easy Then, Either – The New York Times Web版・本文71行目
トップ写真)ドイツの巨大なUボートシェルター
出典)Bettmann by Getty Images
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この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー
1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

