[俵かおり]【美女の定義とアフリカとスリム化】~時代における稀有性と美の関係~
俵かおり(在エチオピアジャーナリスト)
ある週末、ウガンダ出身の男性の友人ベンジャミンとランチをしながら面白い話になった。彼は5人の子どもの父親でもある。テーマはどのような女性を美しい、魅力的と感じるか、ということ。ベンジャミンは、「かおりのことはきれいだ、と思う」と私に気を使って前置きしてくれながら、「でも、僕のカルチャーでは大きい女性が美しい。僕の妻はとても大きくて、とても美しい」と言う。
そしてスマートフォンに入った彼の妻の写真を誇らしげに見せてくれた。確かに彼の妻は典型的なアフリカの母親といった、恰幅のいい女性だった。「このテーマについてはね、忘れられない話があるんだよ」とベンジャミンは続ける。彼が若い頃イギリスに留学していた時、イギリス人の女性の友人と同じテーマが話題にのぼった。そしてベンジャミンは大きい女性が美しいと思う、と言うと、このイギリス人女性は信じられないと言った顔をして、「イギリスでは大きい女性が美しいとは絶対に考えられていない」と言ったという。この言葉は彼にとり衝撃的であり、文化によって美の定義がここまで違うことを教えてくれた、とベンジャミンは笑いながら言った。
どのような人を美しいと思うか、つまり、美女の定義、は社会・文化によって異なることはもちろん、時代によっても変わってきたことはよく知られている。けれども、どこの社会でもかつてはふくよかな女性を美しいと感じてきたことに見られるように、時代ごとに一定の傾向があるように思う。例えばフランスの画家ルノアールの「裸婦」が良い例である。あの時代はあのようにふくよかな女性が美の象徴だった。
けれども時代が現代に近づくほど、先進国では多くの人が今度はスリムな女性を美しいと感じるようになってきた。その良い例が現代のファッションモデルだろう。(モデルに関してはやせ過ぎであるとか、拒食症を促進するなどと社会問題にもなっているが、一般的に太っている人よりもやせた人を美しいと思う人が多いのが現実だ)
この傾向を見たときに、人々がある時代にどういう人を美しいと思うかは、その時代における希有性と関係しているのではないかと思う。つまり、稀なもの、手に入りにくいものに人々は価値を置く、ということだ。かつて社会全体が貧しかった時には、ふくよかな体を持つことは稀で恵まれていたことであり、それは富裕層に所属することを意味した。富裕層であるから、装飾品も身につけられたし、清潔な身体を維持することもできた。
けれども今の時代、先進国では太ることは簡単になってしまい、逆にスリムでいることは難しく価値があるようになった。スリムな体を保つには健康的なバランスのとれた食事、適度な運動をすること、そのようなことができる環境にいられることが条件だ。アメリカでは富裕層であればあるほどバランスのとれた食事をし、きちんと運動をすることでスリムな体を保つ一方で、貧しい移民たちのほうが脂肪の多い安い食事をし、肥満化が進んでいる。
という私の持論をベンジャミンに述べると、彼は私の分析は正しいだろうと言った上で、面白いことを付け加えた。アフリカではふくよかなことは「健康」、「子どもを多く産めること(fertile)」、そして「長生き」をも意味してきたのだ、と。けれども、今は先進国では太っていることは不健康、しいては短命を示唆するようになったのだろう、と。
アフリカは今だに世界で最も貧しい大陸だ。だから、まだ富裕層=ふくよか、という構図が当てはまるところにいる。貧困層=肥満という構図は、もう少し社会が豊かになったときに出てくる。エチオピアの農村部に行くと、農民は骨と皮といった様相で、太っている人などまずいない。
しかしスリムさを好む傾向は、経済成長が進むにつれてエチオピア、そしてアフリカでも今後、確実に広がっていくだろう。実際エチオピアに暮らして、特にアディスの若い富裕層を中心に、ジムにせっせと通ったりダイエットに励んだりして体形を保とうという人たちが増えている。これは、アフリカが豊かになりつつあることを示している。
数十年後に、アフリカがますます経済発展を遂げたときに、ベンジャミンの5人の子どもたちにどういう人を美しいを思うかと聞いてみたい。どんな答えが返ってくるのか、楽しみだ。
(写真:エチオピア人女性はきれいなことで知られる。)
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