【「石の上にも1年」そして前進か転進か決めたらいい】~新・社会人へのメッセージ~
古森義久(ジャーナリスト/国際教養大学 客員教授)
「古森義久の内外透視・番外」
私が社会人として本格的に働き始めたのはアメリカに留学して日本に帰った3日後だった。日本の大学を卒業した直後からアメリカの大学でジャーナリズムを学び、1年余、すでに入社だけはしていた毎日新聞社に出頭すると、静岡支局への勤務を命じられた。実際に赴任すると、すっかり落ち込んでしまった。
まず連れていかれたのが薄汚い警察の記者クラブ、住居は静岡支局ビルの2階の狭い4畳半一室、仕事は市内の警察署に日参して、「今日はなにかありますか」という御用聞きふう。新聞記事の書き方もわからず、他の同世代の記者たちの活動に劣等感を覚える――こんな日常に目前が暗くなった。だから最初は記者クラブの片隅のソファーで不貞寝ばかりしていた。
自分は職業の針路を間違えたのではないか。こんなことをしてなにになるのか。23歳の私は深刻に悩んだ。せっかくアメリカの大学院にまで留学して、マスコミ論や英語を本格的に学んだのに、日本の地方都市で英語など無縁の警察への御用聞きをする。東京で生まれ育ち、東京こそが自分の世界だと信じてきたのに、地方に没入する。これでよいのかと考えこんだのだ。
だが最初は同世代の人間に劣ることへの反発という意地から目前の職務に打ち込んだ。新聞記者という道、ジャーナリズムという職業分野を歩む限り、どんなに違和感を覚えても目前の静岡での取材や報道の基礎に全力を投入する以外にないという全体図がわかってきた。
そしてなによりも、とにかく自分の心身にムチを打って、日々の仕事をこなすうちに新聞報道という職業がおもしろいと感じるようになった。意義が大きいことも実感した。スタート点から半年ぐらいでそんな気持ちになった。静岡市という地方都市にも日本全体の重要な要素が縮図として存在していることも理解できるようになった。
私は結局、静岡支局の記者を2年8ヶ月務めた。その後は東京本社の社会部、そして外信部、ベトナム駐在特派員、アメリカのワシントン特派員と、毎日新聞での報道第一線での記者活動の機会を与えられた。その後は産経新聞に移り、ロンドン、ワシントン、北京など国際報道の中枢での勤務を経験した。スタートから半世紀のいまもワシントンを拠点に記事を書いている。新聞記者の道を歩んで本当によかったと思う。静岡に赴任した時のあの絶望感に従わなくて、正解だったと実感する。
いま回顧しての自分なりの教訓としては、出発点での新社会人はとにかく目前の任務を全力で果たそうと努めるべきだろう。出発点ではだれもが無知であり、未経験なのだ。自分の適性や目前の職務の実態は、まずその対象に身を投じてみなければ、なにもわからないのだ。
「石の上にも3年」という言葉がある。3年でなくて、1年でもよいだろう。若い時代に1年を投入すれば、社会人としての自分自身や自分の周囲、前方はかなり明確にみえてくる。その時点で、「ああ、これは自分が今後やりたい仕事ではない」と実感する場合もあろう。「この職業は自分には向かない」と確実に認識する場合もあろう。そんなときには他の職業、他の職種や雇用先を求めるべきだろう。いまの流動的で自由な雇用状態ではそんな方向転換は難しくないはずだ。
とにかくやってみよう。だが1年もして、これはダメだと思ったら、転進をためらうな。だが、これはいいぞと、感じたら前進あるのみだ。こんな総括である。