[須藤史奈子]【エベレスト街道で被災して】~ネパール大地震:発生から最初の1時間 2~
須藤史奈子(映像ディレクター、プロデューサー)
日本人同士、というのはやはり心強い。電話が全く繋がらないし、Wi-Fiもだめで困っている、とO君にいうと「僕のガラケー繋がりましたよ」と電話を貸してくれた。 20回くらいリダイヤルしただろうか。トゥルールーという音がした。何て素晴らしい音なんだ。「もしもし?」パートナーのきんちゃんの声。「シナコです。今携帯借りてるんだけど、地震があって電波が悪くて・・・」「あ、シナコさん?!・・・」ツー。切れた。でも、まあいい。とりあえず連絡が取りにくくなったという連絡はできた。それに、万が一これが一大事でも、彼女が家族に伝えてくれるだろう。O君に電話を返し、震源地がどこかをまずは調べることに集中しよう、ということになった。全員外に出ていると仮定して、今このあたりにいるのは、現地の人も含めて50人くらいだろうか。しかしそこにいる全員が状況を把握できずにいる。正に陸の孤島だ。 地震発生から20分はたっただろうか。携帯電話が繋がらないという状況は、9・11とニューヨークの大停電の時に経験したが、前者はテレビの情報があったし、後者はポータブルラジオの情報があった。状況が全く把握できないという状況を体験したのは今回が初めてだ。
「次の村へ行こう」というプリさんを説得して、上がテラスになっているダイニングルームのあるロッジに避難しようと決めた。テラスになっているということは、人が歩いても大丈夫なように頑丈にできているはずだ。最悪崩れても屋根が落ちるだけだから、危険度は低い。それに、そこには暖炉がある。 O君と彼のガイドのカルサンさんとも意見が一致して、私たちは「タシ・デレック・ロッジ」のドアを叩いた。
中に入ると、ロシア人のグループ5人がテーブルを囲んでいた。女性1人を除いて、全員見事な体格だ。O君と「もし食べ物が少なくなってきて、この人たちと残り少ない食料を奪いあうことになったら、私たち確実に負けるね」「いや、僕は最初から戦いませんよ」と冗談を言い合う。
プリさんが暖炉を囲むように椅子を並べてくれた。濡れたジャケットを脱いで、椅子に座り、暖炉に手をかざす。暖かいという感覚は、ホッとするという感情に似ている。 自己紹介が始まる。シベリア在住のサーシャは、カタコトの英語で良く話す。そこにラム酒が運ばれてきた。アルコールは高度障害に良くないけど大丈夫かと聞いたら「そうなの?」という答えがかえってきた。やはりこの人たちは強い。 地震発生から1時間が経過していた。
暖炉を囲んで雑談していると「情報が入ったぞー」と言いながら、若い男性が入ってきた。「衛星電話を持っている人がいて、その人からの情報だ。マグニチュード7.8、震源地はカトマンズの近くということだ。首都はかなりの被害らしい」 「ホワット?!」 マグニチュードの数字を聞いて、その意味が分かったのは地震の国で育った私とO君だけだったようだ。更に震源地が首都の近くとは・・・そこまで最悪の状況は、心配性と定評のある私でさえ予期していなかった。
何故なら、揺れが酷かったから、てっきり自分達は震源地から近いところにいるんだろうと思ったのだ。 私は、もしその情報が確かであれば、トレッキングどころではなくなるだろう、と言った。多くの人が亡くなり、怪我人もすごい数にのぼる事になる。今後、自分達の食べ物や水のことも心配しなくてはならなくなるかもしれない。 カトマンズで出会った人たちのことを思い、胸が痛かった。悲嘆にくれる私を、ロシアから来た友人達は、不思議そうな顔で見つめている。 窓の外を見ると、小雨は雪に変わっていた。
(続く)
※トップ画像/タンボジェ村で、地震発生後、情報集めをするバックパッカーたち