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.社会  投稿日:2015/5/7

[西田亮介]【「規範的なジャーナリズム」から「機能的なジャーナリズム」へ】~急がれる構造転換~


西田亮介(立命館大学大学院 先端総合学術研究科 特別招聘准教授)

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メディアのあり方に対する風当たりが強まっている。直近のインシデントを振り返ってみるだけでも、印象に残る複数の重大な出来事が幾つもあった。

2014年の朝日新聞社のこれまでの従軍慰安婦報道の妥当性の再検討、同じく朝日新聞社による、東日本大震災の発災後の、福島第一原発における原発事故対応で陣頭指揮を取った吉田昌郎所長の政府事故調の記録をまとめた、いわゆる「吉田調書」報道のあり方、そして、2015年に入ってからのNHK「クローズアップ現代」制作過程の妥当性を巡る問題とテレビ朝日「報道ステーション」におけるコメンテータの不規則発言がきっかけとなった、政治と放送事業者の緊張関係の変化など、これまでリベラルとされてきたメディアに対する信頼性と正統性が揺らぎ、印象やブランド・イメージを著しく毀損するといわざるをえない事態が目立つ。

保守的な思考を持つ人は、溜飲を下げているかもしれない。確かに、日本のリベラル・メディアは居丈高で、エリート主義的な論調が少なくない。控えめにいっても教養主義的な空気は否めまい。かつてNHKに勤めた池田信夫の近著『戦後リベラルの終焉 なぜ左翼は社会を変えられなかったのか』(2015年、PHP出版)はそのあたりのメディア内のガバナンスと人事が織りなす空気感を実にうまく伝えている。筆者が知る範囲でも、確かに共感する点もある。

リベラル系メディアの「失墜」が、何らかの「隠された真実」を浮上させるのだろうか。しかし事はそう単純でもない。保守的な思考を持つ人でも、言論の多様性と思想の自由市場、政治とメディアの緊張関係の重要性には同意する人が少なくないのではないか。

ところが、昨今のリベラル・メディアの権威の喪失が、これらに寄与する点はほぼ皆無である。放送法で、内容の中立公平性が強力に要請されるテレビ局(放送事業者)に対する介入の強化は、BPOへの介入を通じて、リベラル系/保守系の区別なく、一律に行われようとしている。放送に対する規制体系の異なるアメリカ式の規制手法を、どちらかといえばイギリス型の制度設計に近い日本に接ぎ木することで、言論に対する規制を強化しようとしているように見える。

また政治とメディアの緊張関係も弱体化する一方である。政権と親和性の高い媒体に情報を先出しするといった政治からのメディアの分断統治に加えて、リベラル系メディアに対する不信感が向上したことで、ある意味ではオウンゴールによって、ただでさえ両者の独立が不完全であることが繰り返し指摘されてきた、日本のメディアと政治の緊張関係はますます損なわれていくように思われる。

いったん、政治的な好みと、ジャーナリズム、そして言論の多様性、思想の自由市場の必要性は峻別して考えてみるとよいのではないか。過去の歴史認識の修正を求める保守系の論者は多い。もし現在の、標準的な――そして教科書検定を経ているという意味では公式の――日本の歴史観を変化させるのであれば、当時の資料に基づいた事実の再発掘、再検討が必要で、将来にわたって極力そのような歴史の複線性を再検討できるような状態を維持するためには、事前にどのような複線性がありえるのかという予想が困難であることを鑑みると、やはり豊かな言論とジャーナリズムを保持しておく必要であるという点の合意には至るのではないか。

とはいえ、リベラル系メディアの「〜するべきだ」というメッセージや論調(「規範のジャーナリズム」)は、今後ますます共感を得にくくなるだろう。かといって、これまでリベラルを信じてきた人が突如保守系メディアの論調に賛同するとも思えない。まさに保守という語が意味するように、人の選好や習慣は一朝一夕に変化しない。

日本のジャーナリズムは、伝統的に「速報、取材、告発」に重きを置いてきた。これらの目的に応じて、ガバナンスや表現、手法が暗黙に体系化され、現在でも踏襲されている。ところが、その背後で、関心の対象についての均質性が前提となっていた。その前提が失われたのである。たとえば太平洋戦争での敗戦からの時間の経過や、冷戦の終焉を経て「国民が必然的に政治に関心を持つ時代」という前提が崩れ、その結果、従来と同じように政治や選挙を報道しても、「行間」を共有しない若い世代にはまるで記事の意味が伝わらないという事態も生じている。

対比的にいうならば、「整理、分析、啓蒙」を通じた「機能的なジャーナリズム」への転換が求められているのではないか。情報が飽和している時代においては、政治や社会についてのフレームワークを持たない情報の受け手にとって、大量情報は主体的な選択のコストを引き上げる。従来の信頼の地平が期待できないのであれば、そのようなフレームワークの提供は長期的には教育が、しかし教育の変化は遅く、また限定された教育枠を巡る競争も激しいため、短期中期においてはジャーナリズムが担うほかないのではないか。

前者はシチズンシップ教育が、後者は新しい構想と手法が求められるのだろう。リベラル系メディアに対する風当たりの強化は、従来の、しかし立脚点が政治サイドなのか、それとも人々の側なのかが曖昧だった「規範的なジャーナリズム」から「機能的なジャーナリズム」への構造転換を促す契機と捉えるならば、政治的趣向を越えた、日本のメディアとジャーナリズムの再興もありえるのではないか。ただし、言い方を変えると、これまでの両者のあり方に顕著な変化が見出だせないなら、メディア環境の、あまり好ましくない変容も時代の趨勢というほかないのかもしれない。

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