[岩田太郎]【国民の保護を阻む「憲法崇拝」の日米比較】~米・TV生中継射殺事件~
岩田太郎(在米ジャーナリスト)
「岩田太郎のアメリカどんつき通信」
米バージニア州で8月26日朝、ローカル局の生中継をするアリソン・パーカー記者(享年24)とアダム・ウォード・カメラマン(享年27)が、視聴者の目前で、かつての同僚であるベスター・リー・フラナガン容疑者(享年41)が合法的に入手した銃により射殺された事件で、再び銃規制議論が起こっている。パーカー記者の父であるアンディ氏(62)は、「『正気を失った』(フラナガン容疑者のような)者には銃を入手させない銃規制」を訴え、運動に身を投じる覚悟を明らかにした。しかし同時に、市民が銃を含む武器を所持する自由を保障した米憲法修正第2条を「支持する」とも語り、注目されている。
米国では、「米憲法修正第2条が神聖視されるあまり、米社会全体が銃規制に関して現実的な対応をとれず、思考停止状態に陥っている」とする論調がある。
これは、日本国憲法第9条が自衛隊・日米安保条約の存在や国際情勢の急変で死文化しているのに、それが存在することが護憲派・改憲派双方の自己矛盾と欺瞞を生み、現実的な安全保障論議を妨げてきた、とする主張に通じるものがある。「人の命のための憲法」が「憲法の命のための人」にならないために、どうするべきかという同じ課題が日米両国で、違う文脈において焦点になっている。
『ロサンゼルス・タイムズ』紙のマイケル・マクゴー記者は、20人の幼い子供を含む26人が犠牲になった2012年12月のコネチカット州サンディフック小学校銃乱射事件や、32名が射殺された2007年4月のバージニア工科大学銃乱射事件など悲惨な事件が止まず、「憲法修正第2条そのものを完全に廃止すれば、米連邦最高裁判所が銃の所持が合憲だとする判断を繰り返し、銃規制を阻むことができなくなる」との声が米国で高まっていることを紹介。
しかしマクゴー記者は、憲法修正第2条は個人の権利の概念と密接に結びついており、修正第2条が取り去られることは、多くの米国人にとって個人の権利や自由を奪われる第一歩と同義に見なされることを指摘し、「保守派・リベラル派双方の支持が得にくいので、廃止されることはない」との見解を表明した。
修正第2条は、憲法の宗教的な崇拝という、神聖にして侵すべからざる権利の代表だと同記者は論じている。神聖な権利、いや利権のためには、人がどれだけ銃の犠牲になっても構わないというわけだ。憲法が人のために存在するのではなく、人が憲法のために存在する本末転倒が起こっているのである。
同様の倒錯が起こっているのが、戦力の放棄を定めた日本の憲法第9条だ。東京大学大学院法学政治学研究科の井上達夫教授が指摘するように、一部の護憲派は原理主義的解釈を採るあまり、自衛隊や安保条約の存在を説明できず、論理的にも現実対応においても破綻している。一方、「専守防衛の範囲なら自衛隊は合憲」とする内閣法制局の見解自体、すでに解釈改憲であり、そうした解釈改憲を支持しながら、安倍政権の解釈改憲は許さないと主張する別の護憲一派の論理も破綻していると井上教授は言う。
さらに、改憲派は、「憲法改正などしなくても、解釈改憲でいい」という自己矛盾と欺瞞に陥っていると、同教授は嘆く。そのため、自由闊達な安全保障議論が阻まれ、戦争放棄のお花畑状態か、自衛隊の米軍下請け化という、望ましくない二者択一を国民が迫られることになる。
物事の本質である「国民の命の保護」という議論を阻んでいるのは、米憲法修正第2条では「個人の権利」という神聖な利権であり、日本国憲法第9条では「侵略しない国としてのアリバイ作りのための護憲」「米国への従属を深めることで政治家・官僚が得られる利権を守るための改憲」という神聖な既得権だ。
また、興味深いのは、日米両国で手続き的に困難の多い改憲よりも、解釈改憲が増えていることだ。米国では、女性参政権・所得税導入・禁酒などが改憲国民投票で問われた一世紀前に比べ、政治家は自分たちの息がかかった判事を裁判所に送り込むトップダウン方式や、TPPのような貿易協定で解釈改憲を行うようになっている。日本では与党が過半数を握る国会が解釈改憲の場だ。
一見矛盾する絶対化(神聖化と崇拝)と相対化(時流に乗る解釈変更)だが、同じコインの表裏であり、国民の保護を奪っていく。政治に柔軟性を確保しつつ、一貫性を保つため、「国民の命の保護のための憲法」を判断基準にすべきだ。