[久保田弘信]【国を南北に分断したイラク戦争】~「サダムの時代の方がましだった」~
久保田弘信(フォトジャーナリスト)
2006年、治安の悪化に歯止めが効かなくなり、多くのイラク人が隣国へ難民として避難していった。
イラク戦争開戦時、UNHCRは難民の流出を予想してヨルダン、シリア国境沿いに難民キャンプを建設して待ち構えていた。
ところが、サダム・フセインがイラクを離れた人には土地や家などの財産を保証しない!と宣言したため、予想に反して難民キャンプはガラガラだった。
産油国であるイラクだが、ガソリンが手に入らず、ガソリンスタンドはどこも長蛇の列ができていた。
お昼過ぎにガソリンスタンドを撮影していたら、一人のイラク人が近づいてきて怒りをぶちまけた。
「朝6時からならんでいるのにまだガソリンが買えない、こんな状態でどうやって生活しろって言うんだ」
ガソリンを買って高値で売る商売が始まった。
バグダッド市内は毎日のように停電が起き、街のあちこちでジェネレーター(発電機)が売られるようになった。
イラク戦争の復興は驚くほど早かったが治安の悪化が進むにつれ人々が外出するのも大変になり、公共サービスが滞り始めた。スンニ派とシーア派の対立、そして反米勢力の台頭。バグダッド市内は毎日のように銃声と爆発音が響いていた。
そんな中、戦争中僕が泊まっていたホテルのシェルターに避難していた家族と再会した。
次女のノサールは戦争の恐怖によるPTSDで外に出られなくなっていたが、僕の来訪を喜んでくれ、笑顔を見せてくれた。戦争前、戦時中の写真を見ながら母親は「サダムの時代の方がまだましだった」と呟いた。生活が困窮する中、父親だけが隣国のシリアに出稼ぎに行っていた。
バグダッドなど治安が悪い地域から北部クルド地区のアルビルやスレイマニアに避難する人も増えてきた。アルビル郊外のリゾート地シャクラワは南部から避難してきた人たちの街となり、お金にゆとりがある人たちはリゾートマンションやホテルを長期間借りて住んでいた。
イラク北部は戦争の被害が殆どなく、治安も安定していた。イラク南部では防弾チョッキを着て重装備の米兵が北部では軽装で街を歩いていた。
街の警察も笑顔で写真を撮らせてくれ、同じイラクとは思えない状態だった。
街の電話屋さんには連日多くの人がやってきて、海外に出た家族やバグダッドに残してきた家族と会話をしていた。この時期、アルビルからバグダッドへの電話は国際電話と同じ扱いだった。
戦争の被害が殆どなかったアルビルはレバノンなどの海外企業がやってきて建設ラッシュとなっていた。
イラク戦争後、イラク北部と南部が全く違う国のように歩みだした時期だった。
写真全て:©Hironobu Kubota
トップ画像:「戦争被害が殆どなかったアルビルでは警戒心が薄い米兵」