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.国際  投稿日:2015/12/3

[林信吾]【英国・黒人奴隷の知られざる歴史】~ヨーロッパの移民・難民事情 その10~


 林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

執筆記事プロフィールblog

英国内では第二次大戦後まで、黒人問題は存在しなかった、と述べたなら、驚かれるであろうか。より正確には「黒人奴隷問題」であるが。

またまた驚かれるかも知れないが、英国には黒人奴隷が存在しなかったのだ。

ロンドン南部には、黒人が多く暮らしていることで有名な町がいくつかあるが、彼らの大半は、第二次大戦後にやってきた移民である。

よく知られるとおり、英国は産業革命のトップランナーであった国で、機械を用いた大量生産のノウハウを、世界に先駆けて確立した。当時の工場労働者の生活は、まことに苛酷なものであったが、機械化されていただけに、古代エジプトにおけるピラミッド建設のように、大量の奴隷労働に頼る必要はなかったのだ。

その古代エジプトでは、産業革命期の英国とは、正反対とも言える現象が起きている。当時のエジプト人は、水力を利用することも知っていたし、自動販売機の元祖みたいなカラクリならば作り出すことができたという。しかし、そのノウハウがどのように結実したかと言うと、神殿の前に、お賽銭を入れると噴水が上がる仕掛けを作って喜んでいただけであった。

話を戻して、英国人にとっての黒人奴隷とは労働力そのものではなく、商品であった。17世紀以降、ジャマイカをはじめカリブ海の諸島を植民地化した英国は、すでに支配下にあった、ギニアなどアフリカ大陸に日用品や綿製品を売り、代わりに奴隷を買って、ジャマイカや新大陸に運ぶ。その代金として得た綿花やタバコを本国に運ぶ、という交易の方法を編み出した。いわゆる「大西洋三角貿易」だが、実態が奴隷貿易であったことは言うまでもない。

もともとジャマイカを含む中南米一帯はスペインの植民地であったが、スペインは、国内に大きな産業が育たないうちに、新大陸から豊富な金銀を手に入れた。この結果、大インフレが起きてしまい、繁栄はごく短いものに終わってしまった。そこへ行くと英国のやり方は「持続可能な成長戦略」であったと、経済学的には評価されている。奴隷にされた人たちの身になってみれば、身も蓋もない表現だろうが。

18世紀の終わり頃、こうした奴隷貿易で財を成した商人の一人が、たまたま黒人たちが歌う賛美歌を聴き、「こんな清らかな魂を持った人たちを、自分は今まで商品として扱ってきたのか。なんという罪深いことを」と言って懺悔した、という逸話があり、有名な『アメイジング・グレイス』という歌のモチーフになったとされている。これも、私などに言わせれば、そんなキレイゴトで済むかよ、という話になるのだが。

ともあれこうした事情で、奴隷として英国本土に直接送られた黒人は、ほとんどいなかった。では、ロンドンに数多く暮らす黒人は、いつ、どこから来たのか。答えはもちろん、第二次大戦後である。

二度の世界大戦によって、大量の若年労働力を失ってしまった英国は、戦後復興のために、有色人種の移民を積極的に迎え入れる政策をとった。その皮切りが、大戦中、英軍部隊の一翼を担った英領ギニア出身の黒人兵士たちで、復員後、英国に留まりたければ許可する、との布告が出され、それに応じた人たちがいたわけだ。

ロンドンの地下鉄の駅員に黒人が多いことも、知る人ぞ知るだが、これまた労働力不足を解消するために、ロンドン・トランスポート(市交通局)が、職員の募集窓口をジャマイカに設けていた、という事情があってのことである。

このようにして、ロンドンにおける黒人は、奴隷ではなく近代的な移民労働者として、戦後復興に大きな役割を果たしたのだが、ほどなく、深刻な差別問題に直面した。

1950年代中期に、早くも英国経済が停滞したのだ。失業の危機に直面した白人青年層は、「黒い肌の移民が、自分たちの職を奪っている」と考えるようになり、暴力を伴う移民排斥運動が起きるようになった。

次回は、その話を。

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