[林信吾]【縄文回帰元年であれかし その2】 ~特集「2016年を占う」日本史から学ぶ~
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
言うまでもないことだが、現代の日本人が、狩猟採集民に戻れるわけではない。
ただ、自然の恵みを生かして生きることと、文化的な生活を手に入れることは、必ずしも矛盾しない。縄文時代の研究が進むにつれ、そのことを世界の歴史学者や考古学者が、あらためて認識し始めた。この意義は限りなく大きい。
たとえばエネルギー問題だが、目下のところ一方的に、
「もう一度事故が起きたらどうするのか」
という心配だけで、ほとんど思考停止に陥っている人たちがいるかと思えば、資源に恵ない日本にとって、原子力発電は不可欠なのだ、といった主張ばかり繰り返す人たちが、もう一方にいる。
たしかに、福島の事故の反省から、世界一厳しい安全基準を作り上げたという事実はあるけれども、右のように経済効率の話ばかりしているようでは、
「リスクを負ってまで原発を再稼働させなくとも、目下電力は足りているし、原油価格も下落傾向にあるではないか」
と考える人たちを説得するのは、なかなか難しいだろう。核廃棄物の問題もクリアになったとは到底言えないし、原発推進派は、もっと中長期的な地球環境の視点(温暖化もまた、深刻な問題である)から論理を組み立て直す必要があるのではないか。少なくとも、原発のある暮らしが「トイレのないマンション」ではないということを、事実をもって証明しなければなるまい。
あくまでも私案だが、活断層だらけの地震大国で多くの原子炉を動かすより、地熱などをエネルギー源として利用する方向に、エネルギー政策を転換して行くのもひとつの選択肢であろうし、議論の余地はあるだろう。アイスランドのような成功例もあるのだから。
一方で、日本独自の風土や文化などといったことにはこだわらず、西洋文明からもっと学んだ方がよいのではないか、と思える面もある。
食糧問題が、そのひとつだ。
TPPともからんで、日本の食糧自給率の問題などが、ようやく注目されるようになってきたが、補助金を垂れ流して、農家と言うより農村票を守ろうとするような政策ではなく、思い切って減反政策などやめてしまい、米の増産に乗り出しつつ、余剰米は飼料として活用すればどうか。
これはなにも、炊きたてのおいしいご飯を豚に食わせろ、という話ではない。
牧畜の長い伝統を持つヨーロッパでは、穀物を人間と家畜が分け合って食べるのは、当たり前のことだと考えられている。食生活がこれだけ洋風化している今、ヨーロッパの農業や牧畜に学んでいけない理由が、私には思い当たらない。
少々余談にわたるが、西部劇で、どうしてあれほど銃撃戦が頻発するのか、考えてみたことがおありだろうか。同じ開拓者でも、耕地に定住する農民と、牛を放牧する牧畜民の利害が対立していたという歴史的背景がある。これはいささか極端な例かも知れないが、農耕を基礎としてはじまった文明は、どうしても土地や水利をめぐる争いを誘発しやすい。
だからこそ、自然の恵みを最大限に生かして、持続可能な社会を築いてきた縄文時代の人たちの知恵から、我々21世紀の人間は、もっと多くを学ぶべきではないのだろうか。
新たな1年から、そのような発想の転換が始まることを願ってやまない。
(この記事は 【縄文回帰元年であれかし その1】 ~特集「2016年を占う」日本史から学ぶ~ の続きです。全2回)
※トップ画像:出典、新潟県立歴史博物館HP/縄文文化を探る