[渡辺敦子]【「地政学的」に見る:地元(ローカル)の意味 その1】~地理と政治の関係とその将来~
渡辺敦子 (研究者)
「渡辺敦子のGeopolitical」
昨今、「地政学」が流行しているようである。私は多分、日本ではごく少数の「地政学」を専門とする研究者であるから、ここから新年を考えてみようと思う。まず、私の立場を明らかにしておく。私の専門は思想史で、「地政学」という学問がどのように歴史的発展を遂げてきたかが研究課題であり、地政学的手法により国際関係を分析することではない。よって本稿は、「地政学的国際情勢の予測」ではなく、「地理とわたしたちの政治の関係とその将来」について考えるのが主眼である。
「地政学」とは、そもそもなんであろう。
この言葉は19世紀末、スェーデンの政治家兼学者が考案した。ドイツ政治地理学の祖ラッツェルの地理的決定論が源流とされ、雑駁に言えば「地理的環境が政治に及ぼす影響を考える学問体系」である。類似した理論はドイツ、英国、米国などで前世紀前半に発達し、特にドイツでの流行は顕著で「ヒトラーの科学」と呼ばれた。だがこれは最近の研究では、かなり誇張されたものであったことがわかっている。
日本も全く無縁ではなく、代表的地政学者のハウスホファーはバイエルンの日本駐在武官で日本を愛した。戦中には彼の影響を受けた「大東亜地政学」が発達し、多くの地理学者、政治学者がその方法論を援用した。雑誌『地政学』は学者だけでなく軍人や一般人にも多く読まれたようである。戦後は、この戦争とのかかわりが影響し、欧米でもダブー視される。
日本では、地政学という言葉自体がほぼ抹殺された。1970年代にキッシンジャー国務長官がgeopoliticsという言葉「復活」させ、日本では1980年に倉前盛通が『悪の論理—地政学とはなにか』を出版した。
このように地政学という言葉は世界中で散発的に流行し、むしろ学界以外のマスコミや政界、近年ではエネルギー市場などで用いられ、文脈に専門的なイメージを与える魔法の形容詞でもある。
先日、新聞にこんな一文があった。「インドは地政学的な観点から中国との緊張関係をにらみ…」。これは言い換えれば「地理的に隣接するインドと中国は政治的緊張関係にあり」となるが、前者のほうが真実に迫る感がある。またこの記者は意識していないであろうが、国際政治の世界で用いられる時は、ある隠れた法則性がある。形容される国は大抵、欧米以外のパワフルな国であることだ。
2014年Foreign Affairs誌に投稿された論文「地政学の復活」は、その好例だ。いわく、ロシア、中国、日本、イランといった「パワープレーヤーが国際関係に戻ってきた」。「米国やEUなどは少なくとも、このような動きを不穏なものと受け止めている」。つまり、地政学的パワーを振るうのは、the West以外の不穏な勢力である(拙稿「習近平主席英国訪問の反響」参照)
「地政学」が不思議な力をもつのは、分析対象としてパワーを意味する「政治」に「地理」がエキゾチックな色を加え、同時に分析者に科学性を与えるからだ。こうして地政学は、ある人々にとってある種の国を、不気味な、しかし分析可能なパワーに変換する。
しかし最近の傾向はむしろ、地政学復活の呼び声にもかかわらず、国際関係の地政学的言説があまり長続きしないことにある。たとえばロシアのウクライナに対する「地政学的暴挙」、あるいはフランスのテロに対する「地政学的脆弱性」。どの地政学的パワーも新聞を賑わすのは数日のみである。
日本最大の地政学的課題、尖閣列島問題も最近は影を潜めている。つまり表向きの流行とは裏腹に、グローバル化に従い地政学は従来の奇しい「分析力」を失いつつあるのではないか。では地理は、政治における意味を失い、地政学は再び葬られようとしているのだろうか。
(【「地政学的」に見る:地元(ローカル)の意味 その2】~境界を持たず広がる「地元」がもたらすもの~ に続く。全2回)