朝日新聞の若宮啓文氏を悼む その4 歴史切り取りと日本不信
古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)
「古森義久の内外透視」
若宮啓文氏の朝日新聞での筆法の第三の特徴は「現実の無視と歴史の悪用」だった。前述のコラムで若宮氏は以下のように書いていた。
≪日本のシベリア出兵や米騒動をめぐって寺内正毅内閣と激しく対決した大阪朝日新聞は、しばしば「発売禁止」の処分を受けた≫
≪満州へ中国へと領土的野心を広げていく日本を戒め、「一切を棄つるの覚悟」を求め続けた石橋湛山の主張(東洋経済新報の社説)はあの時代、「どこの国の新聞か」といわれた。だがどちらが正しかったか≫
このように若宮氏は遥か遠い戦前の出来事の特定な一部を切り取って、自分の主張の正当性を証明しようとする。今の日本での懸案はすべて民主主義の政治体制での選択である。だが民主主義が制約されていた戦前の事例を持ち出して、あたかも今の日本にもその種の要因や環境が存在するかのように描く。自分に反対する側は戦前の軍国主義と同じなのだと示唆する。目前の民主主義の現実を無視して、戦前の軍国主義の歴史を目前の出来事への判断に利用しているのだ。
そもそもシベリア出兵も米騒動も若宮氏がこのコラムを書いた時点よりも90年も前の出来事である。そんな昔の大阪朝日新聞への発売禁止の措置をあたかも現代の日本で起きそうな事例として使うのだ。しかも自分たちの特定の政治主張を補強するために時代環境の大きな違いなどを無視して、特定の過去を利用する。歴史の悪用としかいえないだろう。
第四の特徴は「日本という概念の忌避」である。再び前述の若宮コラムから以下を引用しよう。
≪日本にはいまも植民地時代の反省を忘れた議論が横行する。それが韓国を刺激し、竹島条例への誤解まであおるという不幸な構図だ。
さらに目を広げると、日本は周辺国と摩擦ばかりを抱えている。
中国との間では首相の靖国参拝がノドに刺さったトゲだし、尖閣諸島や排他的経済水域の争いも厄介だ。領土争いなら、北方領土がロシアに奪われたまま交渉は一向に進まない。そこに竹島だ。あっちもこっちも、何のまあ「戦線」の広いことか≫
以上の記述にはこの筆者が日本人として日本の領土や主権を守ろうという意識が少しでも感じられるだろうか。「日本は周辺国と摩擦ばかり」という表現も発想も、筆者の基軸が日本におかれているとは思えない。まるでこの世界から遠く離れた宇宙人が他人事を語っているかのようなのだ。そこには若宮氏の「日本という概念」が感じられない。
「周辺国と摩擦ばかり」というのも日本としては自国の利益を守る、奪われないようにするという主権国家としての努力の結果である。
若宮コラムには次のような記述もあった。
≪「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなるのか。小さな無人島と遠い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか≫
以上もまた、日本の主権や国益はどうなのか、という疑問を生む。日本の主張よりも韓国の主張を優先せねばならない、というような発想を背後に感じさせる記述である。やはり日本という概念の忌避を思わせる。
若宮氏は朝日新聞の主筆を2013年1月まで務めた。私は彼がその主筆として最後の時期に書いた評論記事も点検してみた。2013年1月12日の朝刊に載った「『改憲』で刺激 避ける時」という見出しの記事だった。そのなかには以下の記述があった。
≪過去の歴史の正当化や領土問題での強気と改憲が重なれば、周辺国の警戒が高まるのは防げまい≫
≪この憲法を維持できるかどうかは周辺国の日本への態度によって強く影響される。日本はこうした国から敵視されないために、(憲法改正によって)こちらから刺激する必要もない≫
≪憲法9条は過去に軍国主義で失敗した日本へのメッセージである≫
≪日本が(憲法改正で)名実ともに軍隊を持てばイラク戦争のような間違った戦争にも参加の可能性が高まる≫
若宮氏のこうした主張はまず改憲反対の理由として「周辺国の警戒」「周辺国への刺激」という点を挙げていることがおもしろい。周辺国とは中国、韓国、北朝鮮ということだろう。これらの諸国が警戒したり、刺激されたりするから我が日本は日本国憲法を改正してはならない、というのだ。
しかしどの国でも憲法はまず自国の思想や安全、利害を考えたうえで内容を決めるべきというのが鉄則だろう。だが若宮氏は日本よりも中韓両国などの対応を優先して考え、日本の憲法の扱いを決めるべきだと述べていたのだ。この理屈に従う場合、日本は中国や韓国が許可を出さない限り、自国の憲法は永遠に変えられないことになってしまう。
憲法9条が日本の過去の軍国主義での失敗へのメッセ―ジだというのは、日本不信の宣言に等しい。今の憲法を変えれば、日本はまた軍国主義になるといわんばかりの「日本悪者論」の思考がこの若宮氏の記述には滲んでいた。
憲法を改正すると日本は間違った戦争に参加する、というのも、日本不信、あるいは日本悪者論だろう。全世界の他の諸国がみな鮮明にしている自国の防衛の権利をもし日本が改憲によってうたうと、間違った戦争をするようになる、というのでは、日本だけが全世界でも異様に危険な遺伝子でも保有する例外的な国という意味になる。
つまりは若宮氏の朝日新聞主筆としての最後の記事は日本不信、日本危険視の一文だったのだ。
(その5に続く。その1、その2、その3。全5回。毎日11:00に配信予定。この記事は雑誌月刊「WILL」2016年7月号からの転載です)
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。