「政治的正しさ」で溜まるガス
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
昨日とある方と話をしていて、トランプ現象の原動力の一つにアメリカ社会でのpolitical correctness(政治的正しさ)への鬱憤があるのではないかと話をしていた。
アメリカに住んでいた時に、普段はそうでも無いアスリートが、いざ公のところで話すとなると、相当に慎重に言葉を選んでいるなという印象を持った。とても素晴らしいとも思ったが、同時にそんな綺麗事ばっかり思ってないでしょ、だって普段そんなこと言ってないじゃんとも思った。アメリカの格差は凄まじい。毎年130万人が高校をドロップアウトしていると聞いて驚いた。
日本社会において、セクハラ、コンプライアンスの徹底、倫理的な生活、などは政治的に正しいとも言える。実際にこれまで社会の中にあった様々な問題が、今少しずつ解決されて行っていて、疎外されていた人たちに居場所が生まれていたりする。
一方で皆が両手をあげて賛同しているわけでも無いのを、地方で講演をしたり、様々な場所で様々な人と個別に会い、酒を飲むと感じる時がある。特に悪い人たちというわけでも無い。それでも、いやいくらなんでもやりすぎじゃねえかという声を聞く。特に田舎は良くも悪くも人の距離が近い。
例えば居酒屋で若い社員と古参社員が飲んでいるところに出くわす。古参社員から“AちゃんそろそろBとひっつけや”と居酒屋でいじられることもある。Bは“やめてくださいよ、絶対Aと何て無理ですよ”と言いながらまんざらでもなかったりする。微笑ましいと見る人もいれば、セクハラだと見る人もいる。強いのはだいたい政治的に正しいほうだから、セクハラと一旦決められれば古参社員は謝罪をせねばならない。以後、居酒屋では個人的に踏み込んだ会話は敬遠されるようになる。
政治的に正しい社会は、政治的に正しい行動を人間は取りきれるという社会においては最大限に機能すると思う。ところが人間が弱く政治的に正しい行動を取れるとは限らない社会においては、それらが発揮されればされるほどどこかで人は息苦しさを覚え、じわじわとガスが溜まるようになる。長くなったがトランプ現象の原動力はそのガスでは無いかという話だった。
自己抑制がよく効いたいわゆるインテリ層と、一方で政治的に正しいこと(だって実社会は全く違うじゃ無いか)に辟易している層では、どちらのほうがより多いのだろうか。ドイツにいた時、トランプに関しての番組の中で、インタビューに答えた男性があいつが吠えるとすっきりすんだよというニュアンスのことを言っていた。仕事をして人と話しながら、最近はガスが随分溜まっているなと感じることが多い。
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。