山下奉文将軍とフィリピン 降伏した山中で出会った人々
大塚智彦(Pan Asia News 記者)
「大塚智彦の東南アジア万華鏡」
9月2日は71年前の1945年、フィリピン・ルソン島北部の山中で最後まで抵抗を続けていた日本陸軍の山下奉文第14方面軍司令官が降伏を表明した日である。日本では8月15日が戦争終結の終戦の日だが、フィリピンでは山下将軍がバギオ市内で正式に降伏文書に調印した翌9月3日が戦争終結の日である。
戦後70年の昨年、2015年の9月2日、「山下降伏70年記念式典」がルソン島中部山岳地帯にあるイフガオ州キアンガンで行われた。同式典は10年ごとの節目に開催されるもので2005年の60年記念式典以来10年ぶりの開催で、筆者も参加した。
マニラからマルコスハイウェイを北上して避暑地として知られるバギオへ。バギオからアンブクラオ、アリタオ、バヨンボン、ラムットを経てラガウェイへとマニラから退却する日本軍とほぼ同じ行程をたどる。ラガウェイからは幹線道路を外れて山間部の道を西へ、ルソン島の奥深いジャングルの中の小さな村キアンガンに到着する。
1945年9月2日、キアンガン付近の山中を最後の拠点としていた山下将軍は参謀ら少数の側近と共に徒歩でキアンガンの村に下り、小学校の小さな教室で降伏の意思を表明した。翌日バギオに連行され、そこで正式の降伏文書に署名してフィリピンでの戦闘は最終的に終了する。キアンガンでは9月2日は「勝利と解放の日」として祝われ、10年に一度大規模な式典を開催して平和の尊さと戦ったフィリピン人元兵士の功績を称えている。
■最高齢101歳の元兵士も参列
戦後50年、60年の節目にも開かれた式典にはフィリピン大統領、日本大使らが出席したが70年目の昨年は、大統領も大使の姿もなかった。
式典に先立ち降伏記念塔前でフィリピン陸軍軍楽隊が国歌を演奏し、国旗が掲揚された。続いて儀じょう隊による弔銃、VIP、元兵士らによる献花が行われ、式典会場の広場の演壇で知事が記念式典の開会を宣言した。
キアンガン村、周辺の市町村から駆け付けたベトナム、朝鮮戦争などに従軍した元兵士、家族、学生団体、市民団体など約1万人が式典を見守った。ダンス、伝統舞踊などが次々と披露され、クライマックスが第2次世界大戦従軍元兵士の表彰だった。
式典には13人の元兵士が招待され、州知事から賞状とメダルが授与された。壇上に並んだ13人の中には健康状態から出席できず、子供や孫が代理出席する姿や車椅子の老人や女性兵士の姿も。最高齢は101歳の元兵士チャラナオ・マルティン・インドゥナン氏。チャラナオ氏は1945年9月2日、キアンガン付近のバナウェでフィリピン軍司令官の命令を待っていたという。そして山下司令官が降伏を申し出たという知らせを聞いて「その時はとても幸せだった」と感じたという。
さらに「戦争は二度とするべきではない、フィリピンと日本はこれからたとえば気象問題などのグル―バルな問題の解決に一緒に取り組むべきだ」と話した。また別の元兵士は「日本、日本人を戦争当時は憎んだ。しかし今は平和の時代、日本人とは仲良くやっていきたい」と笑顔で日本人だと名乗った筆者に握手を求めた。
キアンガンで農業を営む89歳になるダニエル・グアディ氏は「挨拶をしなかったというだけで殴られたので当時村にいた日本兵は怖かった。山に逃げ夜になると食料を探しに村に降りるという生活を続けていた。山下が降伏したと聞き、走って山から村の家に帰ったのを覚えている」と話す。日本語で「おはようございます」とあいさつし、「見よ東海の空明けて」と「父よあなたは強かった」という軍歌を日本語で歌った。9月2日は「とてもうれしい日だ」と目を細めた。
記念式典でイフガオ州選出の国会議員、テオドロ・バギラット氏は「9月2日は単にフィリピンだけではなく世界にとって忘れられない平和と解放の日で、この日をもって第2次世界大戦という人類にとって暗黒の時代が終わったのだ。生き抜いた人々にとって、私たちにとっても忘れてはならない日である」とスピーチ、大きな拍手を浴びた。
■恩讐を超えた友好ムード
広場を取り囲む山並みの上に広がる澄み渡った青空から降り注ぐ南国の太陽を浴びて、式典会場にはフィリピン、米国の国旗とともに日の丸も振られ、恩讐を超えた友好ムードが流れていた。キアンガンで宿泊施設を経営するアンドリュー氏は「9月1日は遺骨収集や日本兵の慰霊に日本の団体が来ていたが帰ってしまったようで、2日の式典には参加していない。ここまで来たのだから、なぜ式典に参加して元フィリピン軍兵士と親交を深めるなどフィリピンの人たちと交流をしないのだろうか」と話し、残念そうな表情を見せた。
マニラを撤退した山下将軍が一時本拠を置いた山間部の避暑地バギオ市内には「英霊追悼碑」がある。バギオ在住の日系フィリピン人団体「アボン」から委託を受けた74歳のリカルド・エンリケスさんが寝泊まりして管理している。月7000ペソ(約2万6千円)の手当てですでに20年間この仕事をしている。終戦時は4歳だが、銃を持った日本兵の記憶だけはあると話す。こうした日本人、日本の部隊が建立した記念碑、追悼碑がフィリピン各地には多く存在するが、こうした場所を訪れ、慰霊する日本人の個人、団体の多くは「戦った相手は米軍」との認識が強く、「米軍と共に戦ったフィリピン軍兵士、フィリピン人ゲリラ、そして一般のフィリピン人への贖罪や謝罪の気持ちを表す日本人は極めて少ない。戦場となったこの地はフィリピンの土地なのに」とイフガオ州出身のフィリピン人哲学者、アル・クイさんはフィリピンと日本の複雑な関係を指摘する。
■歴史と謙虚に向き合うこととは
第2次世界大戦の戦場となった東南アジアの中でも特に反日感情が根強い激戦地のフィリピン。それはゲリラ掃討と称して日本軍が組織的にフィリピン人を多数殺害した記憶が語り伝えられ、さらにその事実を日本人があまりにも知らない結果でもある。「日本人はもっと歴史の事実に謙虚に向き合って欲しい」と多くのフィリピン人は願っている。
今年1月27日にフィリピンを訪問した天皇皇后両陛下は日本人戦没者だけではなく、フィリピンの英雄墓地を訪れ無名戦士の墓でも慰霊の祈りを捧げた。戦時中フィリピンでは日本兵約51万人が戦死しているが、フィリピン人は110万人が命を落としている。そのことに特に心を寄せた天皇皇后両陛下の強い希望で実現した無名戦士の墓での慰霊だったという。
あわせて読みたい
この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。