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スポーツ  投稿日:2016/9/25

スポーツ選手のセカンドキャリア


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

23歳の時に初めて世界大会でメダルを獲得して帰国したら、急に取材が殺到して驚いた。それから1、2ヶ月大変に忙しくなった。正確には覚えてないが、例えば三日のスケジュールを言えばこんな感じだった。

月曜日 週末のテレビの内容を考えたいので構成作家さんがこられる。なんでもいいからメダルに関して面白いエピソードをと言われ考える。夕方からお祝いのパーティー。パーティーが終わると、実家を取材している記者の方から母親のインタビューをとりたいという留守電と、友達から二件連絡がある。両方講演してくれないかという話。

火曜日 ハイヤーが迎えに来る。初めて乗る。朝の番組とラジオをでたら、昼から企業に挨拶。三箇所回る。夕方から雑誌の取材が三つあり、夜は先輩のつながりで食事。最後に記念撮影。

水曜日 朝練習する。グラウンドには大学の広報の方が来られていて、撮影も兼ねて。電車に乗って都内に移動中3回ぐらい写真をお願いされる。お祝いのパーティーで挨拶。何回目の挨拶だろう。地元の政治家の方がこられていて、何か賞をくれるとのことで、年末年始のスケジュールを聞かれる。パーティーが終わると留守電が3件。取材の話が引き続き、あと講演の返事の催促。遅い時間に食事と友達としようと思ったら、友達が会社の人を呼んでいて撮影会に。20枚ぐらい写真を撮った。電車が疲れるので車で帰宅。

おそらく五輪で結果を出した渦中の選手はこんなものではないのではないかと思う。私の場合は、最初のメダルの時は誰も間に入っていなかったために、個人でメディアとやり取りをしていて大変だった。慣れるまでは人に会って挨拶して写真を撮るというのが徐々に体力を削られるようで疲れた。くる仕事を受け、疲れたら断り、練習もままならなく、戦略も何もあったもんじゃなかった。

アスリートはやはりトレーニングをして試合に出るのが一番大切だから、その環境を如何にちゃんと作り上げるかが重要になる。だったらメディアとか関係者からの依頼はシャットアウトすればいいやと思う人もいるが、スポーツはお世話になっている人がたくさんできる世界でそういう人を無碍にするのは現実的に難しい。

恩師もいるし、地元に応援してくれた人もいるし、競技団体でもお世話になって競技をしている。また選手自身にブランドがなければ、競技成績が厳しくなった時にスポンサーに売りにくくなる。ブランドは長期で競技人生を底支えする役割を果たすから、露出してそれなりに作っておいたほうがいい。もちろん有名になりたくない選手もいるが、だからといって完全にメディアをシャットアウトすれば、競技自体を世の中に認識させる機会を失う。トップアスリートの振る舞いに、次世代の競技者数や競技のブランドが影響を受ける。

ただ対応するだけと、戦略的に仕掛けていくのではやがて大きな差ができる。例えば、今受けている密着取材と、別の局からきている取材がかぶっているとしたら、迷惑をかけないためにうまく内容を調整する。少し見せたい姿と違う演出だとしたら、こういうやり方に変えていただけませんかと提案し返す。飽和して飽きられないように量をコントロールする。様子を見て、何が一番この選手が輝くのかを見極めながら、かつトレーニングできるバランスを保ちつつそこに集中していく。一つ一つの判断は、全て選手の将来から考えていく。

その選手は将来どんな選手になりたいのか。プロ的な活動か、安定した収入を得て職人的にやるのか。引退後はコーチか、それともテレビか、または会社に残るのか、起業か。そのためにやっておくことはなにか、会っておくべき人は誰か。世の中にどう認識されておけば将来に有利か。どう認識されれば夢から遠のくか。ロンドン五輪のメダリストを思い出そうとしても、全てが難しいように、選手が世の中に認識されている時間は短い。そのブームの最中は永遠にこれが続くんじゃないかと思うのだけれど。

世の中が注目するような結果はトップアスリートでもそう何度もない。その瞬間に何を発信するか、どう印象づけるか。黒子の働きは大きい。二度目のメダルの時、断るときや印象が悪くなる場面では必ずマネージャーがやってくれ、私はにこにこ現場で対応すればよかった。自分の代わりに悪く言われる役割を引き受けてくれた人間がいることで、相当に救われたことを今も思い出す。

為末大HPより)

 

 


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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