パフォーマンス理論 その14 量と質について
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
【まとめ】
- 量か質が正しいかどうかは勝利条件によって異なる。
- 量の最大の効果は均一化
- 量は誰にでもこなせるが、質は量によって技術が高まらなければいつまで経っても質をあげることは出来ない。
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パフォーマンスを高めるのは量か質かが私たちの世界ではとても長く議論されている。これはもし効果があること=質が高いという定義にすれば、量はただのバランスの話にしかならず対立軸にはならない。ここではわかりやすくするために定義を、時間当たりの負荷が強く練習時間が短いことを質、時間当たりの負荷が弱く練習時間が長いことを量、とする。
量が正しいか質が正しいかは、結果にどちらがより貢献するかで決まる。結果とは何で決まるかというと、勝利条件で決まる。記録を出すことであれば記録をより高めることは貢献度合いが高いし、自分を成長させることが勝利条件なら自分を成長させることが貢献度合いが高い。また長期的には競技が高度化し、練習は試合の状況のシュミュレーションに近くなる。大人になると、いつまでも単語の記憶や文法を覚えるより、実際に話した方が英語が上手くなるのと似ている。そうなると一体自分たちは何を競い合っているのかという定義が重要となる。私であれば91cm程度のハードルを10個超えながら、胴体を一番早くゴールまで運んだ人が勝つことを競い合っていた。
仮に教育的なものを勝利条件に設定すると、量か質かのバランスが変わる。この場合は、勝利に貢献するかどうかよりも人間としての成長に貢献する方法が効果があるとされる。例えばGRITと言われる非認知能力は、何かに対して長期間取り組むことで鍛えられると言われていて、その対象は何でもいいとされる。このような能力向上を目的とする場合、競技成績を出すことよりも目標を持ち身体的精神的に負荷がかかることを継続すること自体が目的となる。教育的な場合目的は結果ではないという。プロの場合は結果以外の何物でもない。何を目指してスポーツを行なっているのかによっても効果的な量と質のバランスは変わるので、これはちゃんと自分で定義するかまたは指導者と合意しておいた方がいい。
また競技人生のピークをいつ捉えるかで違ってくる。例えば世界に近づくようなトップを目指すのであれば、23歳-30歳あたりでパフォーマンスのピークを迎えることがよい結果とされる。10歳で始めたとしても10-20年かけてのばしていく必要がある。一方で高校で引退する選手は18歳までだから、数年でそれなりのピークに至る必要がある。
若い時は技術が未熟なので質をあげようと思ってもあげきれない。例えばとにかく本気で100kgの重さでスクワットをしてくださいと言っても最初は持ち上げられない。繰り返せばそれが上がるようになるが、その理由は筋力がつくことと、ちゃんとフォームができ神経伝達できるようになるから力に入るようになったということもある。車で言えばエンジンを大きくする側面と、その限界に近づけるようになる効率性の両方をトレーニングで鍛えている。一秒単位でどの程度力を出し切れるかが質の高さを決める。質が高ければ時間単位の負荷は強くなる。
高校生が元気だからたくさん練習できるとよく言われるが、一回で負荷が小さいこともあげられる。そういった高校生を短期間で強くしようと思えばどうしても量に頼らざるを得なくなる。だから高校生でピークを迎えさせようとすれば、量が質よりも大事ということになる。
一方で26,7歳をピークにする場合、技術が成熟してきて出力が出せるようになっている。そうなると、今度は高校生の頃のたくさん走る癖が弊害となる。つまり時間当たりでの負荷を高め、質を上げなければならない競技人生後半に量で追い込む癖が抜けきれず伸び止まる。私は日本の高校生が世界では通用するのにシニアになって通用しにくくなるのは、インターハイなどを目指す際に量で伸びる癖が選手についてしまいそれから脱却的できないことの影響だと考えている。また量を走れば、関節が磨耗して、引退が早まる。私も20代前半に相当走ったが、あれをしていなければもう少し現役が伸ばせたし、今も左膝の痛みを避けるために階段を斜めに降りなくて良くなっている可能性がある。仮に競技人生が5,6年程度であれば走りまくっても問題はないと思うが、10年以上走ろうと思うなら競技人生前半でそれなりに量をセーブしておく必要がある。
量の最大の効果は均質化だろう。何度も何度も繰り返せば精度が高まり均質化が起きる。例えばお手本を見ながら何度も字を書くことを繰り返せば誰でもそれなりに精度は上がる。陸上であれば技術の精度を高めるために反復を続ければ効果がある。一方で、量の最大の弊害も均質化だ。何度も何度も繰り返すことで鍛えれば、何度も何度も繰り返すことに適応してしまう。今から1本50mを全力で走るという時と、今から50本50mを全力で走る時では一本目のダッシュはやはり躊躇する。どんなに根性があっても人は経験を積めばバランスをとって抑制をかけるようになる。ところが陸上競技の試合はたった一発だから、調整しながら何度も力を出せる選手よりは、一度に力を出し切れる選手の方が有利となる。
ある年齢まで競技を続けたほとんどの選手が量より質に走るが、一方で質を追えるようになったのは過去に量を走って動きの精度を高めたり、または量を走ることで量には意味がないと気づくことができたからという可能性もある。また量を追いかけることで心理的な限界値が広がり、その後のトレーニングを楽に行えるようになっていることもありえる。ダンアリエリーが自身の体験から、人生のある時期に継続的に痛みを受けた人間は痛みに対しての許容度が大きくなるという実験を紹介しいている。実感としても根性にはそれなりに技術があって、例えば数字をカウントダウンすることなどで意識をずらすと感覚的には少し限界値を先に伸ばすことができる。こういった技術を量をこなすことで体得している可能性はあるので、量は人生のある時期に必要なことなのかどうかの結論は出ていない。
質のメリットは実戦に近いので、そのままパフォーマンスの向上に役立つことだろう。デメリットは質の向上は技術によって支えられているので、技術が高まらなければいつまでたっても質が上げられないことだろう。技術的に未熟な選手がトップ選手の真似をする場合があるが、多くは練習不足に陥る。熟達者は95%程度の力が出せるが、未熟者は70%しか出せないとする。そうなると同じ100m×2本でも負荷に大きな違いが現れる。量は誰にでもできるが、質はそれなりに技術が高い人間にしかできない。
私なりに分析したところでは、日本人は積み上げ式で物事を考える傾向にある。値段を決めるにも原価を積み上げていって価格を決めることが多い。同じように練習も必要なものを積み上げていくことが多く、それが当初決めていた練習時間を上回るとその練習時間を伸ばして全部を入れようとすることが多くある。つまり限界の概念が弱く、仮にリソースが足りなくなれば限界の方をいじって何とかしようとしてしまうので量が増えてしまう傾向にある。もう一つは、成果よりも実感(疲労感)や姿勢を重視してしまうことが上げられる。スポーツの爽快感そのものを求めれば量は多くてもいいし、頑張っているという姿勢を皆が共有することは快感ですらある。特に日本は母性的な側面が強く、どうしても同調圧力で包まれがちになるので、量が肯定される文化的条件が揃っているのだと思う。
質の練習は結局技術の向上と、そして何が重要で何が重要ではないのかの取捨選択によって成否が決まる。自分はどんな勝利条件で競っていて、何が強みなのかが理解できていない人間にとっては質の定義は難しいと思う。あれもこれも必要なら結局それは量にならざるを得ない。
トップ写真)Pixabay Photo by harutmovsisyan
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。