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.政治  投稿日:2022/7/5

江戸城無血開城と全生庵 「高岡発ニッポン再興」その15


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・全生庵で座禅を組んだ。住職によると、「決断」と「覚悟」を磨くのが禅。

・全生庵創設者は山岡鉄舟。命を賭して江戸城総攻撃をぎりぎりで回避した立役者。

・「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、という人でないと天下の大事は語れない」。少しでも山岡に近づきたい。

 

私は先日上京した際、東京・谷中の全生庵で座禅を組みました。この全生庵は、富山県高岡市の国泰寺を本山にした臨済宗国泰寺派の末寺です。

全生庵の住職を務める平井正修は、禅とは何かという質問に対し、「政治家でも経営者でも大きな決断をしなければならない局面があります。それが正しいかどうかはわかりません。ただ、彼らの決断は社会に大きな影響を与えます。決断には覚悟が必要です。その覚悟を磨くのが座禅です」と語りました。

「決断」と「覚悟」を磨くのが禅なのです。

2007年に退陣した安倍晋三元総理が復活できた回復の原動力の一つも座禅だと言われています。退陣後、安倍元総理は全生庵を訪れ、座禅を組んでいたのです。その後、月に一回ほど全生庵で座禅を組み、徐々に立ち直りました。

全生庵の名前が一躍広まったのは、中曽根康弘元総理が座禅を組みに行ったからです。ほぼ毎週日曜日、全生庵に通いました。中曽根さんは全生庵通いについて「私が、健康で5年間の首相時代をまっとうできたのも、座禅のおかげです。毎週日曜日に行くことが肉体的・精神的クリニックでした。1週間の肉体的精神的苦悩と疲労が洗い落とされるのです」と振り返っています。

政治家だけではありません。全生庵では、官僚や企業経営者らも座禅しています。週末に座禅会を開くと大盛況なのです。

私はこの寺の歴史を調べました。気が付いたのは、この全生庵を彩っているのは、開祖、つまり創設者の山岡鉄舟の存在です。江戸城無血開城の立役者なのです。徳川慶喜に仕えた下級幕臣で、剣の達人であり、禅に深く関与しました。

写真)山岡鉄舟

出典)福井市立郷土歴史博物館所蔵品 / Wikimedia Commons

薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰戦争。その緒戦1868年1月末の鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が大勝、最後の将軍、徳川慶喜は「朝敵」となりました。新政府軍は、江戸に攻め入ろうとしていたのです。総勢5万人、総攻撃は3月15日に決まりました。

その回避に向け動いたのが幕府軍トップの勝海舟です。徳川慶喜の恭順の意を伝える手紙を用意しました。あて先は、駿府(静岡)に陣取った新政府軍の実力者、西郷隆盛です。勝は手紙を山岡鉄舟に託したのです。

3月9日に駿府に到着した山岡は、西郷に切り出しました。

「このまま進撃されるのか、お考えをお聞きしたい」

西郷は答えた。

「もとより国家を騒乱させることを狙っているのではない。不謹慎な輩を鎮定するために攻撃するのだ」

これに対し山岡は

「徳川慶喜は恭順の意を示し、上野寛永寺で朝廷の御沙汰をお待ち申しています。生死いずれなりとも朝廷のご命令に従う所存でございます」

「慶喜の気持ちを受けられないならば、仕方ありません。私は死ぬだけです。そうなると、いかに徳川家が衰えたといえ、旗本8万騎で決死の志士は私だけではありません。それでも進撃なさるおつもりですか」

「江戸を火の海になさらぬようお願いします。民を助けてください」

と訴えました。

西郷はいったん離席し、参謀会議で相談した上、いくつか条件を提示し

「これを受けていただけるなら、総攻撃を中止する」

と明言しました。

山岡の下工作を受けた西郷隆盛と勝海舟の会談は、3月13、14の両日に行われました。ここに、15日に計画していた江戸城総攻撃は回避されたのです。

会談終了後、勝は夕暮れ時に西郷を、江戸城の南1キロメートルほどに位置する小高い愛宕山に誘い出しました。

西郷は

「さすが徳川公は、大変な家来を持っていますね」

とつぶやきました。

勝が「誰のことですか」と尋ねると、

西郷は

山岡さんですよ。生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、そのように始末の負えぬ人でなければ、天下の大事は語れないものです

と答えたといいます。

写真)山岡鉄舟の墓で手を合わせる筆者。筆者提供。

日本はぎりぎりの段階で、内戦を回避したのです。新政府軍に英国、幕府軍にはフランスが付いており、内戦に突き進めば領土は分割され、植民地化されていた可能性があるのです。

「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ」。

こんな人でなければ、大きなことができない。西郷はこう主張し、山岡を評価しているのです。

私は山岡鉄舟に少しでも近づきたいと思っています。

トップ写真:全生庵で座禅を組む筆者。筆者提供。




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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