土光敏夫に学ぶ「利他の心」⑤ 本田と井深が「国民運動」に参戦
出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・土光臨調は、財政再建が国民運動となったことが成功の原動力。
・国民運動の中核組織「行革推進全国フォーラム」。代表世話人は本田宗一郎と井深大。
・本田が土光の応援団に加わったきっかけは関東ボーイスカウト大会。
土光臨調とはどのような活動だったのでしょうか。私は、当時の経緯を知るため、政治ジャーナリストで、元共同通信編集局長の後藤謙次氏に話を聞きました。
土光臨調は、鈴木内閣でスタートしましたが、担当大臣は、行政管理庁長官だった中曽根康弘です。後藤は、共同通信で若き政治部記者として、中曽根、さらには土光臨調を担当していました。
土光臨調が成功した理由について、後藤は「官民を巻き込んだ国民運動となったところが最大の要因。財政再建という痛みを伴うもので国民に一体感が生まれ、運動論が展開されたのはおそらく土光臨調の前になく、後にもない」と強調。財政再建が国民運動となったことが成功の原動力との見方を示しました。
土光自身もこんな言葉を残しています。「行政改革は1年や2年で簡単にできるものではない。他人まかせでできるものでもない。政府にまかせておいて、行革なんかできるはずがない。国民運動を盛り上げて、国民の力でやらなくては駄目だ」と述べ、国民運動の必要性を訴えています。
キーワードは「国民運動」です。臨調が活動していた当時の新聞を見ると、「国民運動」という言葉があちこちに踊っています。行財政改革という大きなテーマを国民全体で盛り上げていこうとしていた。
その国民運動の中核組織となったのが「行革推進全国フォーラム」です。代表世話人はホンダの本田宗一郎とソニーの井深大。戦後ニッポンが生んだ最も有名な経営者2人が参戦したのです。
2人は全国で会合を主催し、国民運動の原動力となりました。1982年6月5日には東京・九段会館で「頑張れ土光さん 国民がついている」という「行革推進国民大会」が開かれました。
まず、主催者を代表として本田がスピーチしました。「土光さんが最初、行革をおっしゃってわれわれは感動した。行革をやらなければ日本の将来に支障がある。どうやってもやらなければならない。税金は自分の金だと思ってチェックすべきだ」。会場は割れんばかりの拍手となりました。
本田がなぜ土光の応援団に加わったでしょうか。そのきっかけは群馬県相馬ケ原高原の関東ボーイスカウト大会にありました。関東ボーイスカウトの総裁を務める土光敏夫と、副総裁の本田宗一郎が紅葉の山中を歩いていました。2人だけで話したいことがあるとして、土光が誘ったのです。
土光は語りました。「本田さん、このままだと日本は遠からずダメになりますよ。政府が発行している赤字国債など、国の抱えている借金がどれくらいあるかご存じですか」。
「いえ正確には・・・」と戸惑う本田。土光は思いのたけを吐き出しました。「100兆円ですよ。100兆円と言えば、国民一人当たり約100万円。生まれたばかりの赤ん坊も、それだけの借金を背負っているということです」。
トップ写真:中曽根康弘自民党総裁(当時)1980年6月17日 出典:Bettmann/GettyImages
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この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家
1964年富山県高岡市生まれ。
富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。
テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。
その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。
21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。
同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。
同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。