鹿児島の司法修習生は神社実習で何を学ぶのか
島津久崇(精矛神社禰宜)
【まとめ】
・鹿児島の司法修習生が、小生が禰宜をしている精矛神社で年末年始、手伝いをしてくれた。
・たまたま司法修習の為に鹿児島に来た彼らだが、歴史と文化を感じられる機会を得た。
・彼らが今回の経験を元に、地域に馴染みつつご縁を広げ、鹿児島にどれだけ爪痕を残し成長するか期待している。
私は、鹿児島県姶良市に鎮座している精矛(くわしほこ)神社の禰宜として奉職している。精矛神社は関ヶ原合戦の折、敵中突破を果たした武将、島津義弘公を祀っている。私は彼の末裔にあたる。
精矛神社は、元々別の社家(代々神主の家)が奉職していた。神社として鎮座したのは今から104年前に遡る。キッカケは廃仏毀釈により、菩提寺が無くなった背景から建立されたという背景だ。
私は、この神社にて奉仕を小学生の頃から行っている。今年も例に漏れず、奉職の為鹿児島に帰った。
今回、鹿児島で初期研修医をしている小坂真琴君が、司法修習生の細谷直史君を紹介してくれた。鹿児島で司法修習を行う為、来鹿した。細谷君は、小坂君の大学時代の同級生だそうで、小坂君が鹿児島で研修していることを知り、鹿児島行きを決意したそうだ。
昨年10月に父の薩摩琵琶独演会へ訪れ、あいさつに来てくれた。薩摩の文化に触れ、野太刀自顕流にも興味を持っていた。年末に引っ越しを完了したので、歓迎会をすることになり再会を果たした。
年末の予定を聞いてみると、特に決まっていない様子だったので神社を手伝ってくれないかとお願いした。彼は二つ返事で受けてくれ、31日の夜から寝袋持参で社務所へ泊まり込み、手伝ってくれた。参拝者へ大きな声で「おめでとうございます!」と声掛けしており、地元の人達も温かく迎えられ笑みを溢されていた。夜中には、他の司法修習生も初詣に参拝し、年始の鹿児島を迎えたそうだ。
2日目からは細谷君に触発され、別の修習生も参加した。パンタ・カイラス君と平山皓寛君だ。パンタ君は東京から、平山君は愛媛から鹿児島へ来た。パンタ君は鹿児島の歴史や文化に興味津々で、父からマンツーマンで歴史談義を交わしていたのが印象的だった。平山君は黙々と己の仕事を黙々と行う姿が印象的だった。鹿児島に来て1週間も経ていなかったが、早い段階で鹿児島になじむ機会となった。
お手伝いしてくれた彼らに、父と私で食事会を企画した。鹿児島では、おもてなし用に事前に焼酎を水で割って用意しておく「前割」という文化がある。その「前割」した焼酎が楽しめて、さらに鹿児島料理が担当できるお店を紹介した。彼らは「前割」した焼酎に舌鼓を打った。「前割」は黒茶家(くろぢょか)で予め割って温めて飲むと説明したら、すぐさま自分も体験してみたいと話が進み、私が上京する日の昼間に沈壽官窯へ案内する事となった。
後日沈壽官窯へ伺い、スタッフの方へ彼らを紹介し、工房の見学や資料館の見学をさせていただいた。彼らは展示されている作品や歴史解説のパネルを見て、感動していた。その上で彼らは、仲間達と「前割」を日々研鑽すべく、黒茶家や焼酎サーバーを購入し、準備を万端にした。
今回たまたま鹿児島へ司法修習の為来訪した彼らだが、ただ司法修習するだけでなく歴史と文化を感じられる機会を得た。それは人の縁と己の行動力の賜物に他ならないのだが、誰にでも出来る事ではない。彼らの行動力や人柄があって初めて繋がった事だ。「薩摩の芋づる」という言葉があるが、彼らが今回の経験を元に人とのご縁の紡ぎ方を感じて学び取り、今後の人生でさらに沢山の良縁に恵まれるようになって初めて鹿児島の研修を全うする事になると私は考えている。
今回の精矛神社実習がキッカケとなり、地域に馴染みつつ御縁を広げ、司法修習が終わるまでに彼らがどれだけ鹿児島に爪痕を残し、またどれだけ成長するのか、大いに期待している。
本記事はMRIC by 医療ガバナンス学会「Vol.23010 鹿児島の司法修習生は神社実習に始まり、何を学んで終わるのか」の転載です。
トップ写真:精矛神社
出典:精矛神社HP
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この記事を書いた人
島津久崇精矛神社禰宜
加治木島津家14代。1992(平成4)年生まれ、鹿児島県出身。鹿児島修学館中学校・高等学校卒業、東京薬科大学生命科学部から編入学を経て2017年(平成29年)帝京大学法学部卒業。在学中、國學院大學神職養成講習会及び霧島神宮での実習を経て2015(平成27)年精矛神社権禰宜として奉職。2017(平成29)年、精矛神社禰宜となり現在に至る。その他、Office ISHIN合同会社CEO、NPO法人医療ガバナンス研究所研究員、医療法人社団鉄医会ナビタスクリニック新宿事務長、レクタス株式会社企画営業を兼任。