ベトナム戦争からの半世紀 その2 日本での反戦・反米
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【まとめ】
・1968年、新人記者時代に王子駅前のベトナム戦争反対、日米安保反対のデモ取材中、投石を受け頭蓋骨骨折の重傷を負う。
・同年秋の新宿騒乱事件、翌年の東大安田講堂事件でも機動隊と衝突。
・筆者自身は政治的主張に中立だったが、アメリカのベトナム戦争については侵略的行動と感じていた。
ガアーンという衝撃が頭の左半分を襲った。かぶっていたヘルメットになにか硬い物体がぶつかったのだ。しびれた感じだけで、痛みはさほど感じなかった。だがすぐに血がダラダラと額に流れ落ちてきた。
東京都北区の国鉄(現JR)王子駅前だった。1968年3月、毎日新聞社会部の新人記者だった私は三派全学連のデモ隊と警官隊が激しく衝突する人間の渦のなかにあった。その騒動を取材していたのだ。中核派を主体とするデモ隊は角棒を持ち、王子駅から1キロほどのアメリカ軍基地の病院に突入しようとしていた。数百人、いや1000人を超えるほどのデモ隊だった。それを阻止しようとする機動隊もヘルメットに金属の盾、警棒を持つ警官たちもいた。
この衝突で危険なのは、周辺の「群衆」とされる野次馬、見物人が多数、出てきて、気勢をあげ、警官隊に敵対的な言動をとることだった。当時の歩道は厚いコンクリートの四角の舗装に覆われていた。その舗装板をはがし、叩き割って、その破片を投げる人たちがいるのが危険だった。私の頭に当たったのもそんな破片の一つ、かなりの大きさのコンクリートだった。だが一体、だれが投げたのかは、まったく見当がつかなかった。
血を流す私をみて、近くにいた同じ新聞社の先輩記者たちが車を呼び、周辺の病院に送りこんでくれた。十条駅前の脳外科の病院だった。そこで緊急の診察と治療を受けた私はなんと頭蓋骨にヒビが入り、内出血していると診断された。重傷とされ、緊急入院となった。投石はヘルメットを私の頭に食い込ませ、脳の骨までを傷つけたのだった。
私のこの負傷はほとんどのメディアで実名入りで「毎日新聞記者、重態」と報道された。
入院後、一時は脳の後遺症でもう記者復帰は無理だろうなどとも推測されたが、私は4週間の入院と治療でなんとか回復した。家族や友人が心配したことはいうまでもない。
さて私のこんな不運も遠回しにはベトナム戦争が原因だった。このデモが「ベトナム戦争反対」、とくに「アメリカのベトナム侵略反対」をスローガンとしていたのだ。より具体的には王子にあったアメリカ陸軍の病院にベトナム戦争で負傷した米兵が収容されているとされ、それに抗議する中核派などが実力行使の突入を図っての騒動だったのである。
この抗議はアメリカのベトナム戦争に反対するだけでなく、日本がその戦争の背後の基地を提供しているという認識から日米安保条約、日米同盟にも反対の声をぶつけていた。1960年代といえば、日本国内ではなお日米安保条約への反対もかなり強かったのだ。とくに左翼勢力は日米安保打破に運動の主力を向けていた。
とくに私が重傷を負った1968年3月といえば、ベトナムでの戦闘がとくに激しくなった直後だった。その年の1月末の旧正月(テト)に北ベトナムと南解放戦線の部隊は南ベトナム領内の各地で大規模な奇襲攻撃に出た。テト攻勢だった。その攻撃部隊の一部はサイゴンのアメリカ大使館内にまで突入し、構内での激戦が展開された。アメリカは南領内に大部隊を送りこんでいたが、このテト攻勢を機にアメリカ国内ではベトナム介入への反対が高まり始めた。
私は毎日新聞に入社してすぐ、アメリカ留学の機会を得て、休職し、実際の記者活動は同期の仲間より1年半ほど遅れてスタートした。最初は静岡支局で新人記者活動を2年半ほど続け、東京本社の社会部に配属された。当初は都内の警察署担当で、王子でのそのデモの取材もその時期だったのだ。1968年春に脳の負傷から回復した私は同じ社会部でこんどは警視庁担当を命じられた。都内の警察署担当よりは昇格だった。
その年の秋には新宿騒乱事件というのが起きた。そのころは過激派と呼ばれるようになった反日共系の学生政治組織の中核派、ML派、第四インターなど合計2000人ほどがヘルメットに角材という構えで国鉄の新宿駅の占拠を図ったのだ。「国際反戦デー」とされた10月21日、学生集団は新宿駅一帯になだれこみ、機動隊と激突した。私もこの事件の最前線の取材を命じられた。新宿駅は完全に麻痺して、新宿の繁華街までが警察側が使った催涙ガスに満ち満ちた。
過激派は立川の米軍基地からベトナムでのアメリカ空軍の軍用機のジェット燃料が搬出され、新宿駅を通過することを阻止するための実力行使だと宣言していた。だから当然ながら過激派は「ベトナム戦争反対」を最大のスローガンとしていた。ただし同時に叫ばれたのは「日米安保粉砕」だった。とくに1970年には自動延長の見通しが強かった日米安保条約に抗議して、「70年安保反対」という声も多かった。
このころの私の東京での記者体験では東京大学の安田講堂事件も忘れられない。1969年1月18日、まだ寒い時期だった。東大では医学部の教育方針への学生側からの抗議などで、全学共闘と称する学生組織が安田講堂を占拠した。数ヵ月間、占拠が続き、大学としての機能が完全に停止してしまった。その結果、大学側は警察当局による安田講堂からの全学共闘の排除を要請したのだ。
私はこの事件でも現場での取材を指示された。前夜から徹夜で占拠学生と機動隊との対決をみていた私は午前8時ごろからの機動隊の安田講堂への突入も眼前で目撃することとなった。機動隊は一階からバリケードを外し、抵抗する学生には催涙弾を投げ、排除していった。内部の学生たちははるかに高い屋上などから手製の火炎ビンや鉄パイプ、石塊などを投下してきた。その瞬間、至近距離に立っていた私は思わず足がすくんでしまった。その前年の王子での投石を受けた体験がよみがえったのだ。
しかし安田講堂に立てこもった学生たちも結局はみなその日のうちに排除された。この東大での学生側の抗議も単に大学の運営だけでなく、ベトナム戦争反対とか日米安保粉砕という政治スローガンの下で進められていたのだ。
この種の政治主張に対して、私自身は中立だったといえよう。アメリカに対しては1年半にわたり、現地で生活し、その国家や社会、人間の長所を多々、体験したので、単なる「アメリカ帝国主義打倒」という日本側の叫びには強い同調は感じなかった。ただしその主張が間違っているとも、とくに考えなかった。そしてベトナム戦争については、やはりアメリカの侵略的な行動なのかな、という感じをおぼろげながら覚えていたほどだったのだ。
(その3につづく。その1)
トップ写真:機動隊の放水を受ける東大安田講堂(1969年1月18日)出典:Bettmann /GettyImages