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.社会  投稿日:2024/2/15

馬券を当てるのは、人の心を当てるよりむずかしい 文人シリーズ第1回「漱石と競馬」


斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)

「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」

【まとめ】

・夏目漱石の『三四郎』、馬券の話がある。

・「ロンドン留学日記」には、競馬に関する記述あり。

・ロンドン留学中、漱石の心の支えは競馬だった――そう考えたくなる。

 

夏目漱石の小説『三四郎』に、次の場面がある。

「馬券で中(あて)るのは、人の心を中(あて)るより六(む)ずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中(あて)て見ようとなさらない呑気な方だのに」

「僕が馬券を買ったんじゃありません」

「あら、誰が買ったの」

「佐々木が買ったのです」

女は急に笑い出した。三四郎も可笑しくなった。

三四郎にほのかな想いを寄せる里見美禰子が、自宅を訪れた三四郎をからかう、有名なシーンだ。美禰子はてっきり、三四郎が馬券を買って損したものと勘違いしてしまったのだ。口調はやんわりだが、辛辣である。だが、言葉の厳しさとは裏腹に、美禰子は、用立てを頼まれた金額は20円なのに、30円もポンと貸してしまうのである。明治30年代の1円は今の2万円ほどというから、30円なら今の60万円である! 競馬狂いの男が恋人を持つなら、こういう女性がいい。理想的である。

「馬券で中(あて)るのは、人の心を中(あて)るより六(む)ずかしい」。文中で里見美禰子にこう言わせた漱石。うん? 彼はもしかすると競馬に手を染めていたのだろうか。ふとそう思って、調べてみた。

漱石は1900年(明治33)9月から1902年(明治35)の1月までの約2年半、ロンドンに留学し、その間の彼の地での暮らしぶりを「ロンドン留学日記」にまとめ、後世に遺した。この日記の中に、ひょっとしたら、競馬に関する記述があるのではと閃いたのである。なにしろ英国は、競馬発祥の国であるのだから。

留学日記のページをめくるが、目当ての記述がなかなか出てこない。やはり、ないのかなぁと落胆しかけたころ、次の文が目に飛び込んできた。渡英2年目の初夏のことである。

一九〇一年五月二七日(月)

頗る賑やかなり。われ住む処はEpsom街道にて茲に男女馬車を駆りて喇叭を吹いて通ること夥し。近所の貧民どもまた往来に充満す。

一九〇一年六月五日(水)

今日Derby Dayにて我が家の付近大騒ぎなり。夕景は彼ら喇叭を吹き馬車に乗りて帰り来る。すこぶる雑踏なり。

(『漱石日記』平岡敏夫編・岩波文庫・ロンドン留学編より)

6月5日の記述「Derby Day」から、この日がイギリス最大の競馬の祭典「エプソム・ダービー」が開催された日であったことがわかる。

とすると、その前の5月27日の記述はたぶん、ダービーの前に行われるのが通例であった最強女王を決める牝馬の祭典「オークス」の日の喧騒ではなかったか。

漱石の下宿は、ダービーの行われるエプソム競馬場に通じるエプソム・ロード沿いにあったのだ。これも、競馬好きの筆者にとっては、なんだか嬉しい発見であった。

しかしこの短い文からは、そのダービーの日、漱石がエプソム競馬場に駆けつけたかどうかはわからない。文面からは両日とも、賑わうエプソム街道を下宿の窓から眺めていただけのようでもある。う~ん、口惜しいが、これ以上は調べようがない。

だが漱石が、ロンドンの図書館でサラブレッドの起源や競馬の歴史を調べていたという事実も確認されている。漱石が鬱々と楽しまぬロンドン暮らしの中で、競馬にただならぬ興味を抱いたのは確かなようだ。

漱石が、実は、ひそかに競馬に入れあげていたと想像するのは愉しい。そしていく度となく馬券でやられたからこそ、美禰子のこの有名なセリフが生まれたのではなかったのか、と想像するのは、もっと痛快だ。

ロンドン留学中、神経衰弱に悩まされた漱石の心の支えとなったのが、実は競馬だった――そう考えたくなるのである。

それにしても、と筆者は思う。“馬の心に索引が附いていれば”、もっと馬券が当たるのに。

トップ写真:1900年頃: ダービーデーにエプソムに集まった大勢の観衆 出典:AL Henderson/Getty Images




この記事を書いた人
斎藤一九馬編集者・ノンフィクションライター

宮城県生まれ。東京外国語大学インド・パキスタン語学科卒業。編集者・ノンフィクションライター。主な著作に『歓喜の歌は響くのか』(角川文庫)、『最後の予想屋 吉冨隆安』(ビジネス社)など。数誌に社会課題のルポルタージュを寄稿。

斎藤一九馬

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