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.国際  投稿日:2025/8/23

ベトナム戦争からの半世紀 その30 大統領府への爆撃


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・1975年4月8日、サイゴンの大統領官邸が南ベトナム空軍のパイロット、グエン・タン・チュン中尉により爆撃された。

・この攻撃は、南ベトナム政府内部の大統領への不満の高まりを示唆し、サイゴン市民にパニックを引き起こした。

・政府は混乱を抑えるため24時間の外出禁止令を発令、南ベトナムの運命に不安を残した。

 

キーンという切り裂くような金属音が朝の街に走った。続いて爆発音が襲う。さらにパッパッパッと板を叩くような乾いた銃砲声が聞こえる。サイゴン市の中心街、ツドー通りにある自分のオフィスに着いたばかりの私は跳びあがった。外をみると、独立宮殿と呼ばれる大統領官邸の方向で煙があがっている。と、ぎょっとするほど低空を銀翼をきらめかす飛行機が一機、飛びぬけていった。首都サイゴン中心部の上空は軍用も民間も航空機の飛行を禁止されていたはずだ。

1975年4月8日、さわやかな朝だった。午前8時すぎである。私はすぐに大統領官邸を目指した。徒歩でも近い距離だったが、車を運転した。街路にはすでに多数の人が出ていた。みな官邸の方向へ向かっているようだった。官邸の周囲を眺めてみて、官邸の建物には被害がないことがわかった。ただし官邸の敷地の西に面した道路は通行禁止とされ、その部分の敷地の内部に破壊の跡があった。官邸の上空を超低空で飛んだ飛行機から小型の爆弾2発が投下されたことが判明した。地上の兵士や警察官など3人が死亡し、他の4人が負傷したという。

長いベトナム戦争でも南ベトナム政府側、しかも権力中枢の大統領府が空から攻撃を受けるという前例はなかった。そもそも首都のサイゴンが空爆を受けるというのは驚天動地の事態だった。北ベトナムの革命側にはそんな航空軍事能力がなかったからだ。ところが初めてのそんな攻撃が目の前で起きたのだ。まもなく南ベトナム空軍のパイロットによる反乱攻撃だとわかった。

南軍関係者らからの情報によると、大統領府への爆撃を図ったのは南ベトナム空軍のグエン・タン・チュン中尉だった。この日の朝、チュン中尉はサイゴン北東30キロほどのビエンホア空軍基地からF5戦闘爆撃機に搭乗し、他の僚機2機とともに、飛び立った。中部海岸での戦闘での南軍地上部隊の空からの支援という目的だった。ところがこの3機のうちチュン中尉のF5だけがエンジンの調子がおかしいため、ビエンホア基地に帰投すると称して、サイゴンに向かい、単機、大統領府を攻撃した。同機は地上砲火の激しい反撃をも浴びて、すぐに首都圏を離れた。一説にはチュン中尉は家族が北部のダナン近くの混乱で消息不明となり、チュー大統領への恨みを抱くようになったとも伝えられた。

こんな情報を得て私の頭をまずよぎったのは、そのつい2日前に軍医学校のホアン・コ・ラン大佐から聞いた話だった。「空軍内部にもチュー大統領への怒りが高まり、もし大統領が航空機で飛べば、撃墜してやるという言葉を口にするパイロットたちも出ている」という話だった。本当に南軍の内部はそんなところまで大統領への不満が高まってしまったのか。

とにかく私はこの大ニュースをあわてて東京の毎日新聞の夕刊にまにあう記事として送稿した。いつものように支局に設置されたテレックスでの送信だった。国際通信はまだテレックス使用という時代だったのだ。するとまもなく日ごろ交流のあるアメリカ人の新聞記者2人が飛び込んできた。私の支局の一角で緊急の原稿を書かせてくれ、というのだ。

シカゴ・トリビューン紙のロナルド・イエィツ記者とボストン・グローブ紙のマシュー・ストーリン記者だった。この時期は全世界の主要メディアが南ベトナムへ記者やカメラマンを送りこんでいた。当然ながらアメリカの記者たちが最も多数だった。この両新聞ともアメリカの地方紙とはいえ、それぞれシカゴとボストンという大都市で圧倒的な強さを持つ有力新聞だった。だがサイゴンには独自の支局を設けていなかったので、短期に送られてきた記者たちはホテルの自室などで記事を書いていた。しかし緊急のこんな事態では一刻も早い執筆と送稿を、ということで市街地の中心にある私の支局の一角を使わさせてくれということになったのだ。私の所属する毎日新聞のオフィスはUPI通信の支局のすぐ隣だったから、アメリカのメディアの記者たちはUPIのテレックスでの本国への記事送りができたのだった。

記事送りを終えたイエィツ記者が汗をふきながら告げた。

「爆撃もすごかったが、いまの街のパニックも大変なものだぜ」

街の様子は私もみてきたが、イエィツ記者たちよりも1時間ほど早くオフィスに戻っていた。それまでは一般の市民は大統領府の様子をとにかくみるということで人の流れはその方向に向かうだけだった。しかも好奇心から状況をみる、という感じだった。だから私もまた街路に出てみた。そしてつい1時間ほどの間の急変に仰天した。ついさきほどは大統領府の方角へ速足で動くという市民の流れがすっかり変わり、まずその人数が何倍にもふくれあがり、パニックに襲われたように思い思いの方向へ、右往左往するのだ。しかもみなおびえきった表情なのだ。大統領府が爆撃されるという前代未聞の危機に、次はなにが起きるかわからないという感じの不安や恐怖の反応なのである。社会でのパニックというのはこんなふうに広がるのかとなかば感嘆の思いをも感じた。

すると、とぎれとぎれに聞こえてくるラジオが政府の外出禁止令を伝え始めた。24時間の全面外出禁止だという。とにかく首都の混乱や動揺を抑えようという措置だった。全面外出禁止というのは軍官の当事者たち以外はすべて市民は屋内に避難せよ、という命令である。この命令はラジオ、テレビだけでなく、市内の各所に設けられた政府の拡声機からも繰り返し、流された。

首都サイゴンに24時間外出禁止命令が出たのは1968年のテト攻勢以来だという。命令が再三、流されるうちに市街の人の数もみるみる減っていった。やがてチュー大統領の短いメッセージが国営のラジオとテレビを通じて放送された。

「この攻撃は国民からも軍からも支持されない一部の過激分子による行動だ。爆撃で私はなんの影響も受けていない。私の家族も全員、無事だ。当面は混乱をおさめるため外出の禁止を守ることを通達する」 

私は支局の窓からツドー(自由)通りと呼ばれるサイゴン中心部の主要街路を見下ろした。日ごろの白昼は人出でにぎやかなその通りもすでに無人に近くなっていた。さあ、この国の運命はどうなるのだろうか。不安と懸念に改めて胸がいっぱいになってきた。

(つづく)

トップ写真:サイゴンの様子、多くの人が米軍の手を借りて国外に脱出している(1975年4月) 出典:Dirck Halstead / Liaison Agency




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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