2025年世界陸上に見る国際イベント評価の新潮流〜東京が試される“統合的価値”

松永裕司(Forbes Official Columnist)
【まとめ】
・東京2025世界陸上は、経済効果だけでなく「経済・メディア・来場者・社会・環境」の5つの柱から大会の価値を評価する「統合的価値」の創出に挑む。
・公的資金投入への市民の目に応えるため、大会は都市ブランドや社会的・環境的レガシーを重視し、長期的な資産形成を目指す。
・チケット販売はすでに42万枚を突破し、東京は競技場内外で世界に先進的なモデルを示せるかを問われている。
来たる9月13日、東京2025世界陸上がいよいよ開幕する。世界陸上が前回、日本で開催されたのは2007年の大阪。東京開催となると1991年と、前世紀の出来事となる。07年の大会では100m、200mともタイソン・ゲイが制し二冠、ウサイン・ボルトが200mで2位となり、翌年北京五輪での二冠獲得、2009年のベルリン大会で100m・9秒58の世界新記録を叩き出す無双時代前夜の姿を見せた。9秒58は16年を経た今も破られないまま。
91年大会では、カール・ルイスが100mで当時の世界記録9秒86で優勝。走り幅跳びでは、ルイスとマイク・パウエルの「世紀の対決」の結果、パウエルが8m96と、やはり世界新記録で頂点に立った。この記録は34年経った現在も破られていない。スポーツ庁が2016年に発表した「25年にスポーツ市場規模15兆円」と言う目標に向け、起爆剤とみられていた21年の東京五輪は、世界的パンデミックの影響により無観客開催となっただけに、こうした世界の頂上決戦を、我々が国立競技場で目の当たりにするのは初めての機会となる。
五輪を含めたこうした国際イベント開催には賛否がつきもの。その是非論のために活用される指標が「経済効果」だ。関西大学・宮本勝浩および大阪府立大学・韓池の両教授が発表した試算によると2007年の世界陸上が日本全体に及ぼした経済効果は約646億円。https://share.google/W01UfhUakbLtb2IuG(リンクPDF閲覧にはダウンロードが必要)。
産経新聞の報道によると陸連は今大会の経済効果を約500億円と想定しているが、07年から25年までのインフレ率を換算すれば前回開催を上回ると考える方が妥当だろう。
https://www.sankei.com/article/20220715-XWWWQ32LHJJQHPEP7Y2SJRJEUM/
開催都市にどれだけの人数が動員され、これにより関連産業にどれほどの消費が生まれたのか……これまでその経済効果が大会の成否を判断する絶対的な基準であるかのように語られてきた 。しかし、時としてこの数値は机上の空論であると指摘され、またさらに社会や環境に対する責任への意識が世界的に高まる今、その古い物差しだけで大会を評価するのは時代遅れとも思われる。
そんな中、世界の陸上競技を統括する国際団体ワールドアスレティックス(世界陸上連盟・以降WA)は、22年のオレゴン大会よりマーケティングに新たな潮流を生み出す挑戦を続けている 。WAが提唱するのは「経済効果」と言う経済的利益だけを追求するのではなく、さらにメディア、来場者体験、社会、環境という5つの柱からなる「統合的価値(Holistic Value)」の創出だ 。過去2大会で実践されたこの評価手法は、東京大会の成功を推し量る新しい羅針盤となるだろう 。
〇東京が目指すべき5つの柱〜イベントの新たな「貸借対照表」
WAが活用する、グローバル調査会社ニールセンが開発した「イベント影響評価(イベント・インパクト・アセスメント=EIA)フレームワーク」は、いわば現代のメガイベントにおける新たな「貸借対照表」とも例えられよう 。短期的な収益だけでなく、開催後に都市に残される無形の資産までをも可視化する。このEIAは、以下の5つの柱から構成されている。
- 経済(Economic):
経済的インパクトは大きな国際大会において依然、重要な指標だ。WAの発表によると、20年に予定されていた東京五輪が21年実施となったため、21年の予定が22年の開催と延期の余波を喰らったオレゴン大会こそ約225億円だった。だが続けて翌年開催されたブタペスト大会は約600億円と算出された。しかし、重要なのは金額ではなく、その投資が将来の成長にどう繋がるかを追跡しなければ意味をなさない。
- メディア(Media):
メディア価値は、開催都市のグローバル・ブランディング戦略そのものだ。大会の中継を通じ、世界に開催都市の姿を発信するメディア・インパクトは、オレゴン大会では約138億円と評価された 。東京大会が発信すべきは、単なる観光名所と競技の映像だけではない。世界にその先進性、安全性、そして多様性を受容する成熟した都市としての「イメージとアイデンティティ」をどう物語るか。その巧拙が、大会後の都市のブランド価値を大きく左右する。
- 来場者(Attendance):
成功は、チケットの販売枚数(ブダペスト大会では40万4000枚を記録 )だけでは測れない。同大会では、観客の77%が「大会に刺激され、より頻繁に陸上競技に参加したくなった」と回答 。これは、前回のオレゴンから41%と飛躍的な向上を見せた 。人々の心に深く刻まれる体験を提供し、スポーツへの参加意欲を喚起することこそ、大会の真の成功指標とも言えそうだ。
- 社会(Social):
世界選手権が地域社会に何を残すかという視点は、今や最も重要視される要素の一つだ。ブダペスト大会では、2,500人のボランティアが15万時間を貢献し、その価値は8353万円に相当すると算出された 。ボランティア活動を通じた市民の連帯感の醸成や、多様性と包括性の推進は、額面以上の資産を東京に残す。2007年、東京マラソン初開催により大きく醸成されたスポーツをサポートするボランティア文化が、今回どれほど成長するだろうか。
- 環境(Environmental):
持続可能性(サステナビリティ)は、もはや単なる努力目標ではない。ニールセンの調査によれば、陸上ファンの約7割がサステナビリティに関心を寄せている。ブダペスト大会では、ペットボトルの30万本削減や公共交通機関の利用促進といった取り組みにより、1,700トンのCO2排出量を削減、3529万円相当のコスト削減を実現した。東京が持つ先進的な環境技術を披露し、世界で最もサステナブルな世界陸上を実現することは、都市の国際的な評価を飛躍的に高める絶好の機会となる。
東京大会は経済効果のみならず、この5つの指標について世界最高水準のスコアを記録するタスクを追っている形だ。
〇都民、国民への説明責任
なぜ今、これほどまでに統合的な価値が求められるのか。その背景には、大規模イベント開催に伴う公的資金の投入に対する、市民の厳しい目がある。世界中の開催都市が「私たちの税金をこのような大きなイベントに使うべきなのか」という問いに直面している。
この問いに対し、「統合的価値」というフレームワークは明確な回答を提示する役割を担う。大会の成功を短期的な経済効果だけでなく、都市のブランド・イメージ向上や市民のスポーツ参加率の向上といった、長期的かつ多面的な「レガシー」で測るという考え方だ。ブダペストに新設されたナショナル・アスレチックス・センターが、大会後に座席数を3万5000から1万5000に縮小し、市民やユーススポーツの拠点として活用される計画はその好例だ。こうした有形、無形の資産こそ、公的資金を投じるに値する真のリターンでもある。
このフレームワークの真価は、単なる事後評価に留まらない。未来の成功を生み出すための「学習する仕組み」としての機能をも果たす。WAは、オレゴン大会のEIAデータを分析し「コミュニティ」という改善点を特定。次のブダペスト大会では、地元のスポーツイベントと連携したチケット割引などを実施し、来場者数と市民の参加意欲を劇的に向上させた実績を持つ。
WAブランド&マーケティング・ディレクターのマリア・ラモスは「私たちはEIAのデータを、次の世界陸上である東京2025の優先分野を特定するためにすでに活用しています」と24年に開かれたウェビナーでも明言していた。このデータに基づいた継続的改善のサイクルこそ、現代の巨大イベント主催者に求められる重要な遂行能力だろう。
2025年、東京の国立競技場で繰り広げられる熱戦…しかし、この大会における東京の挑戦は、トラックとフィールドの中だけで行われるのではない。むしろその外側、すなわち「統合的価値」の創出という、より複雑で壮大な競技において、世界からその手腕が問われることになる。
東京が目指すべきは、単なる経済的成功だけではない。5つの指標すべてにおいて高いスコアを記録し、大会後も都市を発展させ続けるポジティブな遺産(レガシー)を構築することだ。経済的な成功に満足せず、メディアを通じ都市の新たな物語を紡ぎ、来場者に感動的な体験を提供し、よりインクルーシブな社会を推進し、環境先進都市としての模範を示す。そのすべてを達成したとき、東京はアスリートが獲得する栄冠とは別の、価値ある「金メダル」を手にすることになるだろう。
東京2025世界陸上財団は8月13日、すでにチケット販売枚数が42万枚を超えたと発表。東京2025世界陸上、乞うご期待だ。
トップ写真:2023年世界陸上競技選手権大会の女子やり投げで優勝した日本代表の北口榛花選手 2023年8月25日 ブダペスト・ハンガリー
出典:Photo by Michael Steele/Getty Images
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この記事を書いた人
松永裕司Forbes Official Columnist
NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 「あらたにす」担当/東京マラソン事務局初代広報ディレクター/「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Directorなどを歴任。
出版社、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験から幅広いソリューションに精通。1990年代をニューヨークで、2000年代初頭までアトランタで過ごし帰国。

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