ミラノ・コルティナ五輪、ヘルメット問題とウクライナ選手出場停止が問いかけるIOCによる政治的「中立性」の限界
松永裕司(Forbes Official Columnist)
【まとめ】
・ミラノ・コルティナ五輪で、ウクライナのヘラスケビッチ選手が亡き同胞を悼むヘルメット着用でIOCに規則違反とされ、出場資格を剥奪された。
・ロシアへの制裁とイスラエルの参加容認の対比から、IOCの「政治的中立性」はダブルスタンダードである。
・この事件は、組織の規則と個人の人道的な良心の衝突、そして「平和の祭典」の役割について、現代に深い問いを投げかけている。
「平和の祭典」とされるオリンピックは、常にその役割を問いただされる運命にある。
ミラノ・コルティナ2026冬季五輪という世界最高峰の舞台で起きた、ウクライナのスケルトン選手ウラジスラフ・ヘラスケビッチを巡る出場資格剥奪劇は、単なる一選手の規則違反という枠を超え、現代の世界が直面する「戦争と人権」「ガバナンスと人道的感情の衝突」、そして「政治的中立性のダブルスタンダード」という難解な問いを突きつけている。組織運営と個人の尊厳の対立をどう解決すべきなのか、おそらく答えのない事件の本質を考察する。
■「政治的中立」はフィクションにすぎないのか
今大会、ヘラスケビッチが着用を試みたヘルメットには、ロシアの侵攻によって命を落とした同胞の選手たちの肖像が描かれていた。国際オリンピック委員会(IOC)はこの行為を「選手の表現に関するガイドライン」への明確な違反と断じ、最終的に同選手の出場権を剥奪するという決断を下した。
ちなみに同選手はロシアによるウクライナ侵攻前、22年の北京大会においても、自身の滑走後に「No War in Ukraine(ウクライナに平和を)」と書かれた紙をカメラに掲げる抗議行動を行っている。この際、IOCは「平和を求める普遍的な訴え」として不問にした。
多くの人々にとって、戦火に晒される国の選手が亡き友を悼む行為に「NO」を突きつけるIOCの姿勢は、血の通わない官僚主義に映るだろう。しかし、組織運営の観点から見れば、ここには「一貫性」という名の極めて重いガバナンスの論理がある。IOCが守ろうとしたのは、競技場における純粋な中立性である。一つの例外、すなわち一国への同情に基づく特別ルールを認めれば、他国の政治的、宗教的、あるいは社会的主張をも拒む論理的根拠を失う。競技の場をあらゆるイデオロギーの対立から切り離された「安全な空白地帯」に保つことは、3000人ほどの選手全員に対する公平性の担保である。
だが、この「安全」とは誰のためなのかという問いが、ヘラスケビッチの不在によって突きつけられた。五輪憲章第50条が規定する「いかなる宣伝も認めない」という条文は本来、スポーツを政治から保護するための盾。しかし現代において、その盾は時として、個人の良心や人道的な叫びを封じ込めるための「箝口令」へと変質しているように思われる。
■ ダブルスタンダードが形骸化を招いてはいないのか
この事件が議論を呼ぶのは、IOCが掲げる「中立性」の運用が、時として外部の目には極めて選択的で不透明に映るからだ。
2022年、北京冬季五輪以降、ウクライナへの侵攻を執拗に遂行するロシアは、国家としての五輪参加が禁止されている。「オリンピック休戦の違反および領土保全条項への抵触」とされる。その一方で、国連が「虐殺」と認定しているガザ侵攻を進めるイスラエルについては、国旗を掲げた国家代表としての参加を全面的に許容。この判断は「組織的な五輪憲章違反とは見なさない」とされている。
テレビ画面からは窺い知ることはできなかったものの、現地からのレポートによると、開会式におけるイスラエルの入場時には、米ヴァンス副大統領紹介時と同様に大きなブーイングが起こったという。
この対比から浮かび上がるのは、IOCによる正義が地政学的なパワーバランスや、国際社会における「声の大きさ」に左右されているという冷酷な現実だろう。ロシアへの制裁を「領土保全の侵害」という法的スキームで正当化しながら、甚大な人道危機を背景に持つ他の紛争国の参加を不問に付す姿勢は「二重基準」であると批判されても致し方ない。
ヘラスケビッチが自身のヘルメットを譲らなかった背景には、組織が語る「中立」という言葉の形骸化に対する、底知れない不信感があったのではないだろうか。
■ リーダーシップの限界と「共感の開示」という戦術
それでも、この物語が単なる規則の強制で終わらなかった点には、現代的なリーダーシップの苦悩と可能性が垣間見える。IOCのカースティ・コベントリー会長が、競技当日の朝、直接ヘラスケビッチと対峙した事実は、特筆に値する。会長は規則に基づき同選手の出場を禁じながらも、資格認定(アクレディテーション)の完全な取り消しを再考、選手村滞在を認めた。
同会長がIOCの公式リリースの中で語った「あの部屋で、私は会長として彼と話していたわけではありません。一人の選手として彼に語りかけました」という言葉には、組織のトップとしての責任と、一個人としての共感のバランスが凝縮されている。業務上の決断を下す一方で、人間的な救済として組織の枠組みの中で可能な限りの温情を差し伸べる。この「共感の開示」は、分断が加速する現代において、リーダーが組織の信頼を繋ぎ止めるための、苦肉の策と言えそうだ。
しかし、残念ながらとして良いだろう、この温情すらも、一部からは「事態の火消しに過ぎない」と冷ややかに見られている。システムとして下した非情な決断を、個人の「優しさ」で粉飾することの限界を、会長自身も感じたかもしれない。リーダーが「組織の論理」と「個人の良心」の板挟みになったとき、その苦悩を隠さずに開示することが、組織の正当性を辛うじて繋ぎ止める最後の手段かもしれない。
■ 平和の祭典が問い続ける世界と未来
ヘラスケビッチの選択は、選手が単なる競技者ではなく、強力なインフルエンサーであり、社会運動家であることを再認識させた。かつてスポーツ界において「政治をフィールドに持ち込まない」ことは、スポンサー企業のブランド価値を守るための暗黙の了解であった。しかし、選手や消費者は、ブランドに対して「正しい価値観」を表明することを強く求めている。
組織がトップダウンで規定した「中立」という枠組みは、個人の強い使命感の前では、意外に脆い。特に、自国の存在そのものが消し去られようとしている極限状態にある選手にとって、IOCが推奨する「黒い腕章のような控えめな表現」の強要は、屈辱だったのかもしれない。自身のアイデンティティと犠牲者への献身を、五輪というキャリアの絶頂よりも優先した同選手の決断は、個人の信念が組織のブランドを上書きした瞬間でもあった。
特定の国家の参加を禁じながら他国を容認し、一方で個人の追悼の意を「不適切」として排除する。この歪んだバランスを保とうとするIOCの姿は、現代世界が直面する限界を露呈している。
正義と規則が真っ向から衝突し、どちらを選んでも誰かが傷つき、その運用すらも一貫性を欠く状況において、我々はどう対応するのが正しいのか。ヘラスケビッチがヘルメットに託した問いは、今も世界に突きつけられている。
この事件は、単なる出場停止劇として記憶されるべきではない。それは、組織の論理がいかに人道的な感情と調和し得るか、あるいはし得ないのかを問い続ける、終わりのない対話になる。
我々昭和世代は、アメリカとソビエト連邦という2つの超大国が対立する冷戦を横目で眺めながら育ち、1989年のベルリンの壁崩壊という事件、そしてその後、米露の融和により、「世界は平和に向かっている」という夢、幻想を抱かせられた。しかし、2001年9月11日の米同時多発テロをひとつの契機とし、世界秩序はむしろ崩壊に向かっているのではと痛感させられる。
現在も米露中を問わず、世界調和よりも自国ファースト主義が蔓延り、もはや第二次世界大戦前のような緊迫さえ感じられる時代となりつつある。
そんな時代の中、ヘラスケビッチのような我々個人の主張など、風の前の塵に同じ。だが、こうした人間の本質を問う主張を、そのまま看過するような風潮こそ、我々が根絶やしにすべき見えない敵ではないだろうか。
IOC会長は、大会前のメディア向けラウンドテーブルにおいても「IOCはスポーツの組織であって、政治団体ではない」という線引きを行なっている。それでもなお、五輪はまたも重い課題を突きつけられた大会となった。
ヘラスケビッチはIOCによる競技失格の判断について、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に異議申し立てを行ったが、CASは13日、これを却下した。
写真)ウクライナ代表のウラジスラフ・ヘラスケビッチ選手が、ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックの男子練習第5ヒートに参加した。2026年2月11日:イタリア・コルティナ・ダンペッツォ
出典)Richard Heathcote/Getty Images




























