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.国際  投稿日:2025/9/9

ベトナム戦争からの半世紀 その36 チュー大統領の辞任


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視

【まとめ】

・1975年4月21日、南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領が辞任を発表。

・演説では最大の保護者アメリカへの恨みや怒りをぶつけた。

・この展開で戦闘も止まり政治交渉が始まる期待が世界中に広まった。

 

私たち毎日新聞の記者たちはサイゴン支局のテレビの前に緊張した構えで集まっていた。1975年4月21日の夜だった。南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領が全国向けに重要演説をするというのだ。正確には午後7時45分、大統領はテレビ画面に登場した。私たちの関心はチュー大統領が辞任を正式に発表するか否かに集中していた。私自身には大統領が辞任するだろうという確信があった。

その根拠は前回の連載で詳述したように、大統領に近いチャン・ミン・トン上院議員がつい2日前に大統領の現実主義として本人も辞任を考え始めたことを教えてくれた事実が大きかった。だがさらにこの21日の朝、大蔵大臣のチャウ・キム・ニャン氏が電話をくれて、「いいニュースがあることを知っていますか」と謎めいた言葉をかけてくれたことも重要な要因だった。ニャン氏は明言はしなかったが、大統領の辞任が確実になったことをそれとなく知らせているのだとわかった。

演説を始めたチュー大統領は7年半前の1967年9月の選挙での初当選、そして初就任にまでさかのぼって話を進めた。共産側との闘争、アメリカとの折衝、国内での政治闘争などついて熱をこめて語り、3年前の1972年の北ベトナム軍の春季大攻勢に話が及んだ。

「1972年の終わり、アメリカは私に和平協定に調印することを迫った。共産主義者と協定を結び、共存することなど私は絶対にいやだった。だがアメリカは調印しなければ、援助を打ち切ると脅してきた。私は『あなた方は南ベトナムを共産主義者に売る気なのか』と抗議した。するとニクソン大統領は調印すれば、必要な援助の供与を保証し、北ベトナム軍が大挙して攻めてくれば、米軍を必ず再投入して阻止する、と明言した。私がそれでも調印に反対すれば、アメリカは私の生命までを狙っただろう」

予想外に激しいアメリカ非難だった。この演説の通訳はサイゴンのバンハン大学卒業のベトナム語と英語のバイリンガルの青年に頼んでいた。チュー大統領の演説は続いた。

「しかし和平協定ができると、アメリカはまるで市場の魚の値段を値切るかのように、援助を削り始めた。共産側は中国やソ連から常に巨額の援助を受けているのに、わが国への援助はどんどん減っていく。わが軍は戦車を失った。大砲を失った。だがアメリカは損失を埋めてはくれない。わが軍は郡都を失った。省都を失った。だがアメリカはなんの支援もしてくれない。和平協定の際にはっきり誓った支援をしてくれないのだ」

チュー大統領はなお語気を強め、アメリカへの非難を続けていく。熱をこめ、声を強め、怒りを増し、活力さえを高めていく。これが辞任する指導者の態度なのか。演説はすでに1時間を越えていた。私はここでつい不安になった。チュー大統領はまちがいなく辞任するという事前の情報を得ていても、自信がなくなってきたのだ。自分の見通しがもしかすると、誤りではないかとさえ、感じるようになった。

しかしやがてチュー大統領の声がやや沈み、聴きとりにくくなった。するとすぐに通訳が叫んだ。

「あっ、辞任です!」

チュー大統領はやはりみずからの退陣の意思を表明したのだった。

「『チューこそが平和への障害だ』というのは共産側のプロパガンダだ。アメリカの世論や世界の世論までがそれに引きずられている。だが私の辞任でベトナムの新しい道が開ける可能性が少しでもあるならば、私は潔く退きたい。明日のアメリカ議会で南ベトナムへの援助がまた審議されるが、もしチューがいるから援助には反対という議員がいれば、私の辞任によって考え直してほしい」

チュー大統領はここで沈痛な表情をみせ、辞任の意思を明確にしたのだった。後任は憲法の規定に従い、チャン・バン・フォン副大統領が昇格する。チュー氏自身は辞任後もサイゴンに残り、新大統領の下で共産側とあくまで戦う、とも言明したのだった。

画面に映るフォン副大統領は71歳だが、足が不自由らしく、右手で杖をつき、左手でハンカチを握り、涙をぬぐっていた。よろよろとした足どりで正面に出て、簡単な就任演説をした。

「チュー大統領は正しい時機に退いた。いまこそ国内のすべての人間が団結し、共産主義者の手から国土を守らねばならない。団結すれば生存の道が開ける。対立すればみな死すばかりだ」

フォン氏は独裁のゴ・ジン・ジエム政権からは弾圧され、獄中生活を耐えた反骨で知られてきた。だがいまや老いが目立ち、心もとなかった。

私はこの大変動をさっそく記事にして東京本社に送った。南ベトナムにチュー大統領がいなくなる。サイゴンに慣れた人間にとっては、それまで想像もつかなかった変化だった。なにしろチュー氏は過去7年半、その途中では二度目の大統領選挙での再選を経て、とにもかくにも戦火にさらされた国家を継続して統治してきた指導者だった。そのカナメの人物がいなくなる。しかも最大の保護者だったアメリカへの遠慮のない恨みや怒りをぶつけての退出だった。

数日後、大蔵大臣だったチャウ・キム・ニャン氏からチュー大統領辞任の裏話を聞いた。

その辞任の2日前にサイゴン駐在のグラハム・マーチン・アメリカ大使がチュー大統領に会い、いま辞任すれば北ベトナムとの停戦交渉への道が開け、アメリカ議会での南べトナム援助案の議決が円滑になる、と説得したのだという。チュー氏もその時点ではまだ辞任の意思は固まっていなかったが、マーチン大使のそんな言葉に動かされた、というのだった。これも確認の難しい話ではあったが、十分にありうる出来事だと思った。

とにかくチュー大統領の辞任は一つの時代の終わりだった。この瞬間に私自身も含めて、この展開で激しい戦闘も止まり、政治交渉が始まるかもしれない、という期待が世界中に広まったともいえただろう。

この夜のサイゴンでは夜間外出禁止が午後8時からと、また1時間、早められた。チュー演説が終わらないうちに一般市民は外出を禁じられたわけだった。深夜に近い街を私はいつものように記者用の外出許可証をポケットのなかで確かめて、支局から自宅のアパートへ10分ほどの街路を歩いて帰宅した。途中の市役所や国防省の建物周辺では完全武装の将兵が警戒に立っていた。その背後には多数の兵士たちが路面に寝袋を敷き、休んでいるのがみえた。こうした首都の緊迫はまた一段と厳しく感じられた。チュー大統領のいないサイゴン、そして南ベトナム。明日からそれがどうなるのか。私にはもう見当もつかないという不安に改めて襲われた。

(つづく)

写真:1968年のテト攻勢でベトコンに殺害された犠牲者の集団葬儀で演説するチュー大統領(1969年10月15日 南ベトナムのフエ)




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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