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.国際  投稿日:2025/9/16

ベトナム戦争からの半世紀 その37 国外脱出の狂乱


古森義久 (ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

 「古森義久の内外透視

【まとめ】

・国外脱出への渇望が高まる中、ベトナム政府は徹底した外国渡航禁止命令を出していた。

・しかし、米政府が南ベトナム在住アメリカ人と共にベトナム人の大規模避難を開始。

・アメリカ人とのコネという新たな特権が求められた。

 

 「ベトナム人ならば国がどう変わっても、やはりベトナムに残るべきだろう」 

 「いや、あなたは外国人だから、わからないのよ」

 「殺されるわけではないし、とにかく戦争が終わるだけでも、いいじゃないか」

 「戦争が終わっても私たちと共産側の人たちとでは、一つの社会でともには暮らせません。おたがいにあまりに異なった生活をあまりに長い年月、送りすぎているのです」

 「共産側、共産側というが君自身は共産側の社会についてなにも知らないではないか」

 「いえいえ、私は1954年の南北ベトナム分割の際に共産主義の北には住めないと判断して南へ移住してきた人たちに囲まれて、育ってきました。その後も南領内で革命のためには手段を選ばない共産側の暴力でむごい目にあった人たちを多数、みてきました」

 

 私はサイゴン市街の喫茶店でグエン・チ・タムさんとそんな議論を1時間以上も続けていた。タムさんは20代後半の女性、国立銀行の正職員だった。フランス系の学校で教育を受けたタムさんに私はフランス語の個人学習を受けていた。世代もほぼ同じとあって友人のようにもなっていた。1975年4月22日の昼下がり、チュー大統領が辞任した翌日の危機の迫るサイゴン市内での会話だった。

 

 だがこの会話はどこまでも平行線だった。タムさんは南ベトナムでもいわゆる上流階級だった。経済的、社会的に安定した両親の下で高等教育を受け、名声のある職業に就き、というだけでも革命側からみれば、腐敗階級だろう。タムさんはチュー大統領夫人の縁続きでもあった。

 

だから私も大統領周辺の重要人物に取材のため接触する際にはタムさんの助けを借りたことがあった。そんな相手がいま必死に国外への退避について助言を求めてきたのだ。私は当初、おそらく日本的な感覚からだろう、ベトナム人はやはりベトナムに、という平板な意見を述べていた。タムさんが直接に革命勢力との闘いに加わったわけではない。北ベトナムが全面勝利しての新社会でもきっと民族和解の標語の下では虐待されることはないだろう、とも考えていた。だがタムさんは「あなたは共産側の苛酷さを知らないのだ」と主張し続けた。ベルギーには兄が、フランスには親類が以前から居住しているので、ひとまずそこを訪ねるために出国したい、というのだ。そのうち私に向かい「あなたに相談するのは議論をするためではなく、出国のためのなんらかの助言をもらえると思ったからです」とまで述べるので、私も言葉を失っていった。

 

 実は私が出国についての相談をされたのは、タムさんが初めてではなかった。サイゴンではダナンが陥落した3月末ごろから国外脱出の激しい動きが始まっていた。南ベトナム政府がなんとか北との停戦交渉を目指しても、北側の優位は変わらない。しかもまだまだ北側のサイゴン総攻撃という南側にとっては軍事的な破局ともいえる可能性も大きい。となるとそんな危機に瀕した南ベトナムからの脱出を求めることも、自然ではあった。

 

 ただし南ベトナム政府は国民の外国への渡航にはきわめて厳しい規制を課していた。公務の出張、公的に認められた外国への留学や研修以外はほぼ全面禁止に近かった。ただし南ベトナムの官僚制度には汚職がつきもので、賄賂を払えば、外国への渡航が許されるという実例も少なくなかった。申請者側も外国にいる家族との再会、外国でしか受けられない病気や症状の治療、外国の政府や企業への就職など、の理由をあげ、特例としての出国を求める人たちがあいついだ。サイゴン市内のボータン通りというところにある出入国管理局には連日、長い行列ができていた。ほとんどは富裕階層だといえた。

 

この狂奔は4月中旬に入って、さらに過熱した。チュー大統領がさらに徹底した外国渡航禁止命令を出したからだった。その網をくぐり抜けて外国の航空会社の便にうまくもぐりこんだり、小型の航空機や船を自前で調達して、違法に国外に出ようとする人たちも増え始めた。政府側はその種の違法出国を抑えるために空港や港の警備を厳しくした。ただしそんな取り締まりのなかでも、ベトナム女性が外国人の夫とともに外国で生活するために出国という事例は人道上の理由で認められるという情報が広まった。

 

その結果、私のところにもその種の「結婚」の手続きを求める要請が驚くほど多くあった。私が独身だったことも一因なのだろうが、顔見知りというだけの旅行代理店勤務の女性が書類だけの夫になってほしいと、必死で頼んできた。政府機関に勤める他の女性も出国したらすぐ離婚の手続きをとり、財政的にも一切、迷惑をかけないから暫定的な結婚証明書にサインしてほしいと懇願してきた。

 

同時にアメリカのドル通貨の価値が高騰した。といっても闇ドルの価値である。南ベトナムの通貨ピアストルとの公式の交換レートが非公式の市場では5倍、6倍にも跳ねあがった。国外へ避難しようとするベトナム人たちがみなアメリカのドルを欲しがったからだった。私のところにもどんな少額でもよいからドルをベトナム通貨と交換してくれという要請が多数の人からあった。政府や軍の現職の高官からも頼まれた。

 

だが連日の報道活動に追われる私には臨時の夫になることも、手持ちのわずかなドルを手放すことも、対応する余裕がなかった。ただ必死で国外への避難を求める人たちへの同情は感じるようになった。

 

 ただしこの国外脱出の状況も4月20日ごろからがらりと変わった。アメリカ政府が南ベトナムに在住していた民間アメリカ人とともに、保護すべきだと判断したベトナム人の大規模避難を始めたからだった。アメリカは軍や政府の大型輸送機多数を動員していた。アメリカの大使館や領事館で勤務したベトナム人、さらには米軍のために働いたベトナム人、その他アメリカ企業に勤務した人など、アメリカを主敵と長年、みなしてきた革命勢力からみれば敵性の強い南ベトナム人は将来の懲罰や虐待を恐れて、避難させるという米側の意図だった。

 

 ベトナム戦争の当事者だったアメリカとしての南ベトナムでの協力者に対する配慮だったともいえよう。アメリカの政府機関や軍隊で働いたという証拠がなんらかの形であれば、アメリカへの出国が認められた。アメリカ人の配偶者や家族がいるという証明だけでも許可が出た。その「証明」も緩やかだった。米側としてはできるだけ多くのベトナム人協力者を保護したいという善意だともいえただろうか。あるいは混乱や敗北を招いたことへの責任ということか。

 

 どんなアメリカ人男性でも簡単な結婚証明書にサインして、相手のベトナム女性の名を書けば、その女性も、そして彼女の家族さえも、アメりカへの出国が認められた。その結婚が本物かどうかを追及する調査もなかった。だからサイゴン市内では血眼のアメリカ人探しが始まった。誰でもいいからアメリカ人をとにかくみつけて、出国許可の書類にサインしてもらう。そのために無数のベトナム人が走り回った。南ベトナム政府の出国許可などもう不要となったのだ。それまでの富裕階層、特権階級の資金やコネによる出国の手続きがより難しくなったのである。

 

 アメリカ大使館では従来の領事部のほかにタンソンニュット基地内などに臨時の出国手続き事務所を開いた。どこも超満員となった。その人波にはGI向けバーのホステスや基地内のPXの売り子、あるいは大使館の警備員など、富裕層とは縁の遠い男女も多数、含まれていた。アメリカ人とのコネという新たな特権が求められたのだ。私はタムさんの願いを聞いて、親しかったUPI通信のアメリカ人記者に結婚証明書のサインを頼んだ。彼は快諾してくれた。

 

(つづく)

 

トップ写真:アメリカ軍による輸送を待つ南ベトナム市民

 

出典:Dirck Halstead/Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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