[為末大学]【“標準的な”家庭と違う事が心の負担になる日本】~隠す事より見方を変える事〜
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
小学校で子供達に生い立ちを書かせる授業があり、それが問題になっているという。養子で引き取られた子供が悩むことがあり、子供への負担が大きいそうだ。確かに日本の小学校で、多数の家庭とは違う家庭環境で育っている子供がそれを発表することの心理的負担は大きいように思える。一方、この問題の最も本質的なところは、養子で引き取られたということを告白することは子供を傷つける、という前提だろう。つまり標準的な家庭とは違うと皆に思われることは、人に負担を強いるという事で、そうなると標準とは何かという疑問が起こる。
アメリカは特殊な地域だろうけれども、サンディエゴで暮らしていた時に、親と子供の人種が違うという事があった。養子をとるという事がドラマの中でもよく出てくるし、日常を生活していても時々そういう人に会う。離婚も多いというものあるけれど、”お父さんによく似ていますね”というのは知らない親子に会った時にあまり上手な表現ではないというのを覚えた。僕が住んでいたエリアはゲイも多いエリアだったので、彼らが子供の養子をとる事もあった。
ポイントはそういう会話がある程度普通にされている事だった。つまり隠していない。うちの子は養子で、と親が話す。家族の標準の有り様というのがあまりなくて(当然アメリカでも地域によってかなり違うだろうけれど)、一緒に住んでいて助け合っているものが家族というぐらいの認識だと感じた。だから入れ替わりも結構あり、こういう文化の国ではアジア人の子供を白人のお母さんが迎えに来ても、あまり驚かれない。
さて、振り返って子供の生い立ちの話である。過去に虐待などの経験がある可能性もあるだろうし、そういった事を思い出させないように配慮が必要だろうと思う。だから、今の日本ではそういう事に触れるのは避けた方がいいのかもしれない。けれども将来、本質的に社会が多様性を担保した時には、ゲイであろうが、養子であろうが、障害を持っていようが、人と違うという事になんら心の負担を感じないようになっているのではないかと想像する。”あなたはみんなとなんら違いませんよ。だから大丈夫”ではなく”あなたは明らかに人と違うけれど、どうせ多かれ少なかれみんなそうだし、そんな事よりあなたが考えている事の話が聞きたい”になっているのではないかと思う。
人が何かを話そうとする時に、受け入れてもらえるだろうかという事に対して恐れを抱く。つまり恐れやかわいそうはその人ではなく、いつも世間の認識の方にある。さて、標準とは何だろうか。また違うとはどういう事だろうか。私は隠す事より、見方を変える事で偏見と対峙すべきだと考える性質のようだ。