[植木安弘]【日本社会の“多様性受け入れ”は可能か 1】~同化型社会の選択~
植木安弘 (上智大学総合グローバル学部教授)
「植木安弘のグローバルイシュー考察」
今年2月に産経新聞に掲載された曽野綾子さんの「労働力不足と移民」と題するオピニオン記事が話題になった。その中で、曽野さんは、「他民族の心情や文化を理解するのは難しい… 外国人を理解するために、居住を共にすることは至難の業だ。南アフリカ共和国の実情を知って以来、居住区だけは白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいいと思うようになった」と述べている。
これに対しては、アパルトヘイトという人種隔離政策に長年苦しんできた南アフリカ共和国の駐日大使がすぐ抗議した。人種隔離政策を正当化するような発言と取られたからである。これに対し、曽野さんは「生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい、という個人の経験を書いているだけです」と釈明したが、日本の知識人がこのような他人種に対する偏見とも思われる発言をしたことに対しては多くの抗議文が寄せられた。しかし、この発言に同調する人も一部に見られ、改めて日本社会のあり方が問われることになった。日本社会は本当に多様性を受け入れられるのだろうか。日本社会とは一体どのような社会なのであろうか。
この問題を考える上で、他の幾つかの社会と比較してみると、日本社会のあり方が見えてくる。それは移民が持ち込む異文化社会の受け入れ方を比較してみることだ。少し単純化することになるが、例えば、イギリス社会の異文化社会の受け入れ方は「多文化主義」とも言える。多文化主義とは移民が持ち込む幾つもの異文化社会をそのまま受け入れ、共存させることである。
アングロ・サクソンの文化や伝統はそのまま保ちながら、移民社会の文化などには寛容である。ただ、自らの文化や伝統の優位性は維持し、そこには外からの人達は容易に入れない排他性がある。これは特に上流階級に見られ、ビジネスで成功した外国出身の人達でも同等には扱われない風潮が残っている。異文化社会に人種的な相違の要素が加わることにより、「彼ら」と「我ら」の壁が大きい。最も、若い世代の中では異人種間の結婚なども多くなっており、異文化間の壁が少しずつ取り除かれつつある。
フランスはイギリスとは違い、同化型の社会である。フランス至上主義的な側面が強く、自由、平等、連帯を国是としているが、フランスの言語、文化、伝統を最良のものとし、外国からの移民に対してもこれらを受け入れることを前提とする。受け入れられれば「フランス人」として扱うが、受け入れられなければ「国内の外国人」となる。「ヒジャブ」と呼ばれるイスラーム教徒が頭に巻くスカーフをかぶったまま学校に登校することが問題となり、禁止されたことがある。これは、フランス社会の政教分離の原則によるものだが、顔を隠すベールについてはフランスの文化伝統に合わないと禁止している。イギリスなどではそのようなベールについては寛容である。
米国は元々移民の国として発展してきた。そのため、アングロ・サクソン系の白人が主流を占めているとはいえ、様々な異文化を持った人達が集まって一つの国を作っている。米国にとって大事なのは、異文化の共存ではなく、米国の国民となった人達が米国に忠誠を誓うことである。その点、米国の国旗は極めて大事な意味を持っている。統一のシンボルであるためである。米国、特にニューヨークなどは「人種のるつぼ」と言われることがあるが、これは全てが一つになったるつぼを意味するのではなく、多文化が共存し、その上に立って、アメリカという一つの国を作っているということなのである。米国は長年人種差別に苦しみ、これが完全に抹消された訳ではないが、アメリカという人口的な国へのインクルージョンを基礎にした社会である。
この三つの社会のあり方から日本を見てみると、日本はフランス型に近いことが分かる。つまり、日本社会は同化型なのである。
(【日本社会の“多様性受け入れ”は可能か 2】~異文化の人達を受容する社会の必要性~ に続く。全2回)