[千野境子]【国民から嫌われ続けた軍政】~ミャンマー総選挙とアウン・サン・スー・チー氏のこれから その1~
千野境子(ジャーナリスト)
最終確定までにはまだ間があるものの、アウン・サン・スー・チー氏率いる野党、国民民主連盟(NLD)の圧勝は明らかで、与党、連邦団結発展党(USDP)は見る影もない。
上下両院(定数計664議席)のうちNLDは390議席を獲得、未確定は3(11月15日連邦選挙管理委員会)となり、もし軍人枠(166議席)がなければNLDの一人勝ちが逆に心配になるほどの勝ちぶりだ。
とにかく軍政は長すぎた。というのが大方の感想だろう。何しろ「ミャンマーの春」と呼ばれた民主化と反政府運動が始まったのは1988年3月と、27年前の昔である。母親を看病するためイギリスからちょうど帰国した、建軍の父アウン・サン将軍の娘であるスー・チー氏はたちまち民主化運動のシンボルとなり、「春」は実現の一歩手前までいく。だが体制崩壊を恐れる軍が9月にクーデターを敢行、翌89年7月には軍事政権によりスー・チー氏も自宅軟禁されたのだった
本稿を少し回り道すれば、この頃、世界は激動が席巻していた。89年6月には中国・天安門で盛り上がった自由と民主の運動を人民解放軍の戦車が制圧、11月にはベルリンの壁が崩れ、東独、ルーマニア…と東欧革命に火が付き、12月には地中海・マルタ島での米ソ首脳会談で冷戦終結が宣言された。この他、東南アジアでは一足早く86年2月、フィリピンのマルコス独裁政権が倒れた。コロンブスの新大陸到達以来、つまり500年に一度級の変動と言われたものである。
こうした潮流の下、ミャンマーも90年5月に約30年ぶりに複数政党参加の総選挙を行い、スー・チー氏のNLDは485議席中392議席を獲得する圧勝を遂げた。先に一人勝ちが心配になるほどと書いたのは、この後、起きたことがチラリ過ったからである。
軍事政権は選挙結果を無視しただけでなく、スー・チー氏の軟禁解除にも応じず、新憲法の制定が先という理屈で居座り続けた。その上今後も政権交代が容易に出来ないよう、議会に軍人枠を作るなど統治の枠組みをますます強固にしたのだった。
<スハルト体制に範を取る?独自の道歩んだ軍政>
以後、ミャンマーは民主化の動きを封殺し、国際社会に背を向け、我が道を進む。軍政が範としたのは、やはり軍人主導による開発独裁のインドネシア・スハルト体制だったとされる。関係者がジャカルタ詣でをして指南を仰ぎ、一方ミャンマーの東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟(1997年)などにはスハルト大統領が何かと後ろ盾になった。
ただしミャンマー軍政とスハルト体制の決定的な違いは、前者が欧米による経済制裁の代償とは言え、いち早く軍政を承認してくれた中国と関係緊密化をせざるをえなかったことだ。それもあって軍政は欧米の理解や支援を最後まで得ることが出来ず、2011年3月の民政移管まで待たなければならなかった。
インドネシアは逆にスハルト政権が1967年に中国と断交、民主化の弾圧ではミャンマーにひけを取らない強権体制であったにもかかわらず、欧米の全面的支援を受けたのとは対照的であった。
(その2につづく。本シリーズ全3回)