何が北朝鮮を追い詰めるのか~日本人拉致事件と私~
古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)
「古森義久の内外透視」
北朝鮮による日本人拉致事件はなお未解決の悲劇として日本の政府や国民に重くのしかかったままである。この拉致事件を解決しようとする努力に私もささやかながら、かかわってきた。最初は現役の新聞記者という立場だったため、その動きを表に出すことはほとんどなかった。だがここへきて主要な集会で初めてその経緯を語ることになった。
1月28日、東京都内での拉致被害者を「救う会」全国協議会が主催した緊急集会だった。日本と北朝鮮の外務省の間の「ストックホルム合意」に基づき、北朝鮮が拉致被害者らの「再調査」を始めてから1年半、なんの成果もないことに「家族会」や「救う会」が危機意識を深めての日本政府への要求を高める集会だった。
この集会には政府を代表して拉致問題担当の加藤勝信大臣が最初から最後まで参加していた。同じポストにあった古屋圭司、松原仁、中山恭子各議員も出席していた。
その会合の最終部分で司会役の「救う会」の西岡力会長から私は突然、指名されて挨拶と激励の言葉を簡単に語る次第となった。西岡氏の紹介は「いつも我々をワシントンで助けて下さっている古森義久さん」という表現だった。
ちなみに私は第二次安倍内閣の発足時に拉致問題担当大臣が任命した「有識者懇談会」の一員となっていた。その理由は拉致問題の解決のための日本側の努力をアメリカ側に伝えるプロセスで手助けをしたことだった。小泉純一郎首相が北朝鮮を訪れ、金正日総書記に日本人拉致の認めさせた2002年9月よりも前のことである。
私はそんな経緯を踏まえて、今回のスピーチでは以下のようなことを述べた。自分の拉致問題へのかかわりを説明せざるを得なかったのだ。
「私はまだ日本政府が動いていない段階で、たまたまブッシュ政権が非常に前向きに日本人拉致問題について対応してくれた時期に、家族会・救う会の方々がワシントンにいらっしゃった時に、アメリカ側との橋渡しをさせていただいたことから拉致問題にかかわりました。とくに今でも覚えていますが、ワシントンのナショナル・プレス・クラブで横田早紀江さんが記者会見をした時に日本人の男性通訳が途中でピタリと声を止めてしまったのです。早紀江さんの言葉を聞き、英語に翻訳しているうちに、こみあげてくる涙でなにも言えなくなってしまったのです」
「こういう人までが感動する真実というものが拉致問題にはあるんだなと私も感じました。早紀江さんが切々と訴える心です。これほどの真実の悲劇には私にもできることがあれば何かしなければならないと感じたわけです」
2001年2月末のことだった。当時、登場したばかりのブッシュ大統領は年頭教書演説で北朝鮮を「悪の枢軸」と糾弾した。そのことが金正日総書記を追い詰め、2002年には日本からの援助欲しさに拉致を認めたのだといえる。だがこの横田早紀江さんらが初めて訪米した時は日本では官民ともにまだまだ「北朝鮮による日本人拉致事件などない」という声が多かった。ところがブッシュ政権内外の関係者は拉致を完全な事実だと認めて、日本の被害者家族らを温かく迎えたのだった。
私は今回のこの短いスピーチでそんなアメリカ側の協力姿勢の価値を語り、最近の米側や国連など国際的な状況を述べた。アメリカならば自国民の拉致には軍事力をも使ってすぐに断固と対応するだろうが、日本にはそれができないことも米側は知っていて、その点への同情まで示す反応があったことをつけ加えた。
ちょうど15年前、身の凍るように寒いワシントンでの出来事だった。
あわせて読みたい
この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。