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スポーツ  投稿日:2016/8/7

撤退は進むより勇気と経験がいる


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

サニブラウン選手が6月18日の練習中に違和感をもち、大事をとって今回の日本選手権を欠場した。日本選手権を欠場したということは、実質リオ五輪出場はなくなったということだと思う。将来のある選手なのでまずはゆっくりと休んでまたあの豪快な走りを見せて欲しいと思う。

現役時代によく“違和感”程度で陸上選手は休みすぎじゃないかと言われたものだ。その頃から漠然と、世の中には、もしかするとスポーツ界にも陸上選手のいう違和感というものがどんなものかうまく伝わっていないのではないかと感じてきた。

他の競技などでは肉離れをした選手が怪我をおして試合に出場したという話があったりするが、陸上競技ではこれはありえない。別に根性がなかったり痛みに弱かったり、というわけではなく、単純に試合に出たところで勝負にもならないからだ。他の競技と何が違うのかはよくわからないが、短距離はとくにスピードだけを競う競技であるために、少しのずれでパフォーマンスが全く変わってしまうからなのかもしれない。

一体陸上選手の違和感とはなんなのか。選手の競技力が卓越してくると、体のあらゆるサインを感じ取れるようになる。例えば、何とも言えずハムストリングスが気持ち悪い時がある。陸上選手は体験的に、この張りの方向はやばい方向なのか、安全なのかをわかるようになる。安全な方向であればごまかせるが、やばい方向であれば怪我に繋がることがかなり多い。特に今回のように五輪予選を欠場する程の違和感であればすでに痛みも伴っていて軽い肉離れのような状態になっているのだろうと思う。

イメージでいうと、大きな凍った湖の上に立っているとする。自分が立っている地面がぴきぴきと音を立てている。いいから思いっきり地面を踏んでみろと言われるが、確かに割れないかもしれないけれど、割れてしまって湖の中に沈んでしまうかもしれない。その上に立っている本人には足の裏からヒビが入っている感触が伝わっているが、外からはよくわからない。そういう状況に似ている。

怪我をすればまた回復させればいいと言われるが、それは確かにそうだという一方で、とある怪我で体のバランスが崩れ、パフォーマンスが回復しないままになってしまう選手もいる。微妙なバランスの上に成り立っていた競技力が怪我で崩れてしまい、掴めなくなることもよくある。

サニブラウンのコーチは山村という元短距離選手で、私はシドニー五輪を一緒に走った。彼はとにかく根性があった選手で誰よりも練習が強かった。ところがそれが災いして、脛の部分に痛みを抱えたまま練習を押し切り、ついには疲労骨折を起こしてしまった。怪我から復帰したものの、以後彼は走りのバランスを崩してしまい、現役を終えるまで代表入りをすることができなかった。

良いコーチも良い選手も、学習をしてそれを活かせる人なのだろうと思う。撤退は、進むよりも勇気と経験がいる。

為末大 HP 2016年6月22日 より)


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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