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スポーツ  投稿日:2016/3/18

価値観に縛られている人の「怯え」


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

私の人生の大きなテーマの一つに価値観の解析というものがあります。価値観がなければ世の中のものには意味がありません。いいがなければ悪いもなく、そうすれば起きていることに意味がなくなります。昨日、社員とその話をしていてふと昔考えたことを思い出しました。

価値観の形成は私の考えでは、生来のものが少し、それからほとんどは幼少期の環境から受けるもので決まると思っています。共感について書かれた本ではボノボと言われる類人猿の一種にも、生まれた時から共感的な行為がみられるそうですから、私の考えよりももっと生まれながらの価値観の比率は高いのかもしれません。

子供の頃、褒めてもらった瞬間、価値観の兆しが見えます。なるほどこれはよいことでこれは悪いことだというのを学んでいきます。仮に親が全くそれを消していたとしても、世の中で拍手をされている行為や怪訝な顔をされている行為を子供はよく見ています(少なくともこちらにはそう見えます)。それによって価値観の学習をしているのだと思います。

私たちが人を見下す時も、価値観がないと見下すことすらできません。良いと悪い、優れていると優れていないがないと、相手が下かどうかが自分にも判断できないからです。上から目線に敏感な人は、価値観が強く形成されている人です。ですから、自分と相手のどちらが上かということをすぐ感じ取ってしまいます。もちろん感じ取るベースにあるのは、自分の中の根強い価値観であるわけですが。

価値観が根強い人は、誰が上で誰が下かというのもまたはっきりとしている人でもあります。逆に価値観がそれほど根強くない、または多様な価値観が内在している人は、仮に目の前の人が自分より足が速くても容易に見下されたとは思いません。もしかしたら自分の方が頭がよいかもしれないし、能力自体で全て下だったとしても、自分の方が幸せだと感じているかもしれません。要は、人間はそう簡単に順列をつけられないと思っているわけです。

価値観が強く、上下に敏感な人は、同時に自分より下の相手を見下します。全く同じ価値観で人を裁き、そして時には自分を裁きます。ゆえに価値観の強い人は威嚇する一方、どこか怯えた動物のような空気をまといます。なぜならば常に順位を気にしながら生きているからです。周囲を威嚇し、また時には自分で自分の自信を失うわけですが、その本当の根本にあるのは自分の価値観であるわけです。

自分は価値観で人をさばいていないと信じ込んでいる人は、目の前の人にフラットで接しようとするのですが、内側にある相手を見下している感情がにじみ出てしまいます。人は価値観はそれほど強固で、わかったからといってなかなか消せるものではありません。唯一の方法は自覚的であることではないかと思います。

人は、まさに自分の価値観によって歪められた世界を生きています。許しとは価値観からの解放をも含んでいるのではないかと推測します。


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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