[為末大]世の中はエンターテイメント不足なんじゃないか?〜佐村河内守さんのゴーストライター報道を見て思う
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
◆エンターテイメント社会◆
先日、コーヒーを買いにいったら、若い女性達が“新垣さんの会見が楽しみ”と話をしていた。佐村河内守さんのゴーストライターであった作曲家・新垣隆さんの記者会見のことだ。それをぼんやり聞いていて、ふと「これって、すごいエンターテイメントだな」と思った。いつもぼんやりとしか見ていないテレビに釘付けになる事件。
最近、社会で「不謹慎だ」と批判される事例が多いように感じていて、それについて考えていたのだけれど、この会見を見ていて、「どうも世の中はエンターテイメント不足なんじゃないか」と思った。事件が足りないという欲求不満があるような気がする。
2001年9月11日は僕の初めてのドキュメンタリーが放映されるはずの日だったのでよく覚えている。いろんな人とその時の事を話した中で記憶に残っている言葉がある。“あれはすごい絵だった”確かに自分の中でも映画を見ているような衝撃があった。
前回の参院選で若者達が盛り上がっているのをふと外から眺めていて、そういえば子供の頃は、広島カープの応援している人達も、映像で見た全共闘の学生達も、同じように見えた。退屈な日常、非日常を欲する気持ち、祭りの感覚、一体感。
不幸せなわけでも、幸せなわけでもなく、友達がいないわけでもないけれど、なんだかよくわからない「つまんなさ」がある。社会のエネルギーは何かを変えたいという方向よりも、「一時でも退屈を忘れたい」というものなんじゃないか。
全部、設定とそれに対する役柄でしかないと思うと、社会というのも何とも愉快だな、と思う。
◆モノは人を賢くするのか馬鹿にするのか◆
最近、身体の状況を計るデバイスがたくさん発表されている。脈、体温、運動量等が計れるようになり、これで管理が容易になると期待されている。確かにそうだなと思う一方で、何か人間の感性が失われる可能性もあると僕は思っている。
試してみたけれど、自分が感じていた事とさほど変わらなかった。というよりも、自分の実感値とずれた時に、実感の方を僕は信じてしまう。そもそも自分の脈の状態や運動量や疲労感がわからないアスリートは自分自身をマネージできない。
“if you can’t measure it, you can’t manage it”(測定できないものは、管理することは出来ない)
この言葉が僕は好きなのだけれど、一方で計ったものの意味を理解できなければ計る意味もない。データはあるけれどそれをどう読み取っていいかがわからないという事はよくある。
完全なもののデザインとは、それがそうされるべく待っている状態なのだろうか。それとも、そのものを扱う人間が想像力を掻き立てられ成長する事なのだろうか。私達がものを使いこなすのか、それとも、モノに私達が“そうさせられている”のか。
自分でコーチをしてきて、一つだけ得られた能力があるとすれば、それは「自分の状態がわかる」という事だと思う。欝になった方の話を聞くと、危ないのにその事に自分が気づいていなかったりする。計画が先にたち、自分の状態と無関係に進んでいき、ある日ぷつんと切れる。
計る事で、自分の感性がそれに近づく事はいいと思う。でも“もの”に疲れているかどうか、休むべきかどうか、動くべきかどうか判断され始めれば、それによって失われる何かがあるように思う。ベンチではなく切り株が置いてある方が人は想像力を掻き立てられる。
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