[瀬尾温知]【手塚治虫がアニメ製作を決意した日】~戦時下のプロパガンダ映画の秘密 2~
瀬尾温知(スポーツライター)
「瀬尾温知のMais um・マイズゥン」(ポルトガル語でOne moreという意味)
日本初の長編アニメーション映画(モノクロ、スタンダード35㎜、74分)は、日本が戦争に敗れ、GHQ・連合国総司令部によって没収ないし焼却されたか、爆撃によって焼かれてしまったと考えられていた。そのことから幻の傑作アニメと言い伝えられていた。瀬尾光世監督も「スタジオが5月27日に爆撃で焼かれ、自宅も焼かれたので資料も残ってない。フィルムがあるとは考えてなかった」と、存在を信じていなかった。それが終戦から約40年後の1984年に、国立近代美術館フィルムセンターなどの努力によって、松竹大船の倉庫でネガが発掘された。その3年後にはテレビで映画を放送し、瀬尾光世と手塚治虫を招いて、映画評論家の荻昌弘による司会で対談がもたれた。
手塚治虫は公開初日のことを対談で語っている。「映画館の周りは焼け野原になっていて、都会には子どもがいませんでした。映画の中に描かれているものと周辺が違いすぎるので、『これは嘘だ』という感じがしました。内容的なものですよ。私が感動したのは別のことで、『よくぞこれが日本で出来たな。これで日本人はアメリカの漫画界に負けん』という、うれしさがあった」と、まるで昨日観た映画に感動しているかのように話していた。
封切り当時20歳だった手塚治虫は、どうにも観たくてたまらなく、勤労動員として働いていた工場を休んで大阪の松竹座へ向かった。「全編に溢れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれた」(手塚治虫エッセイ集1より)。焼け残った松竹座の客席で感激の涙を流し、「おれは漫画映画をつくるぞ。この感激を子どもたちに伝えてやる」と誓った。エンターテイメントに込められた夢と希望のメッセージに心を打たれ、いつか自分の手でアニメを作りたいと決意するきっかけとなった映画だった。
気になるこの映画のアメリカ側の反応は、手塚治虫がその対談の中で話している。「映画がビデオ(※1)になって、アメリカに渡ったんです。それをアメリカの映画評論家が見ましてね、アメリカの映画雑誌に評論を書いたんです。それを読むとですね、『内容的にはアナクロだ。しかし、この技術は、その当時アメリカ人が見たらびっくりしただろう』そういうことを書かれているんです。今のアメリカ人が見て、40年前とは思えない、とびっくりしているんです」。アメリカが日本のアニメの技術を認めていたと、興奮気味に話していた。このときの対談では元気な姿を見せていた手塚治虫は、その2年後、胃癌で亡くなった。60歳だった。瀬尾光世は長生きし、2010年、98歳で他界した。
幻となっていたフィルムが約40年後に発見されたあと、日本のアニメ史を語るうえで貴重な映画は、松竹系の映画館で公開された。12歳の少年だったわたしは、家族に連れられて銀座まで観に行った。そのときのことで、鮮明に覚えていることがある。上映後に舞台挨拶をした瀬尾監督が檀上を下り、客席に歩いてきたときのことだ。わたしの父が立ち上がり、監督の前に歩み出た。「ご無沙汰しております」と、父は礼儀正しく頭を下げ、何年ぶり、何十年ぶりかに会う父親に言葉をかけた。そしてわたしの手を引いて、息子です、と紹介した。わたしは初めて目にする祖父に名を名乗り、母に促されるままに握手を交わした。それが最初で最後の祖父との時間だった。
緑地にある川崎市市民ミュージアムから外に出ると、蝉の声が降り注いでいた。上映が終わったあとに、ひとりの老婦人と話をした。「私はね、アニメってそんなに好きじゃなくて、あんまり見ないんですけど、とってもおもしろかった。絵がかわいくてね。まん丸の御顔をした桃太郎さんが素敵だったわ」。老婦人は遠くの空に目をやりながら、和やかな表情で語ってくれた。海軍省に戦意高揚が目的と命じられながらも、瀬尾光世が届けたかった夢と希望。そのメッセージは、70年が過ぎた今、終戦当時は少女だった老婦人の心に響いていた。
終戦70年、二度と同じ過ちを繰り返さないように、我々は戦争の話を継承していく必要がある。そのためには、異なる世代の者が会話することなのだが、その対話が減少傾向にある現代社会のライフスタイルに懸念を感じている。
※1)2014年6月から「桃太郎 海の神兵」はDVD版が販売されている。
(この記事は【日本初長編アニメは戦意高揚が目的】~戦時下のプロパガンダ映画の秘密 1~ の続きです。本シリーズ全2回)
※トップ画像:瀬尾光世と手塚治虫(出典 1987年/TBS 土曜ロードショー特別企画)