[瀬尾温知]【日本女子サッカー協会の新設も】~初代会長に澤穂希氏を推す~
瀬尾温知(スポーツライター)
「瀬尾温知のMais um・マイズゥン」(ポルトガル語でOne moreという意味)
北京オリンピック3位決定戦の前のミーティングでの言葉だった。「言うことはない。苦しくなったら、苦しいのはみんな一緒だから、私の背中を見てがんばろう」。女子サッカーを勇気づけてきた澤穂希。苦難を乗り越え、鍛えられた強い精神力があったから、後輩たちは澤を慕い、奮い立って力を合わせることで女子サッカーは発展してきた。澤穂希が生まれたのは1978年。ちょうど日本の女子サッカーが歩みはじめた時代だった。女性用のサッカー用品はなく、女子選手はジュニア用か男性の小さいサイズを身につけてプレーしていた頃だった。女子サッカーリーグ(のちにL・リーグと改称され、現・なでしこリーグ)の誕生は1989年、澤が11歳のときだった。その2年後、澤が読売クラブの女子チームに入団した年に、FIFA女子世界選手権(現・FIFAワールドカップ)の第1回大会が開催されている。日本は3戦全敗、無得点12失点の散々たる成績だった。その20年後の第6回大会で日本が頂点に立つことになろうとは、想像すらできないことだった。
さらにさかのぼると、日本の女子サッカーで初のクラブチームが誕生したのは1972年。当時、日本サッカー協会の事務局は、東京・渋谷の岸記念体育館内にあった。事務局員がサッカー雑誌等でメンバーを募集して結成されたことから、地名に由来して「FCジンナン」と名づけられた。FCジンナンは1980年に開催された第1回全日本女子サッカー選手権大会(現・皇后杯)の初代優勝チームになった。澤が2歳になる時のことだった。この大会が8人制、25分ハーフ、ジュニア用のひと回り小さなゴールを使用して行われたことを考えると、澤の成長とともに女子サッカーは目覚ましく進化してきたことになる。
ワールドカップの第1回で惨敗した日本が、その20年後の第6回大会で頂点に立ち、進化の勢いの最高潮を極めた2011年の「なでしこ旋風」。それまでサッカーに興味のなかったおじさん・おばさん達までもがとりこになるなど、日本列島が今まで経験したことのない、狐につままれたような現象に包まれた。その中心にいた澤は、日本の女子サッカーが発展する時代に時を合わせて生まれ、そして発展を促した最大の功労者である。女子サッカーの日本史と澤の経歴を照らし合わせてみると、澤が残した足跡を追いかける作業のようなものだった。
37歳で引退を表明するまでの現役生活22年間は、うまくなりたいという探求心と、澤がどういったプレーヤーかを理解してくれる仲間によって支えられたものだった。「すべてやりきった最高のサッカー人生だった」と引退会見で語ったが、今後は、現役選手から形は変わっても、女子サッカーが日本の“誉れ”高きものであり続けるよう“穂希”の尽力を注いでもらいたい。それが澤の背中を見てきた一人として送れる労いの言葉で、今後の人生へのエールである。日本女子サッカー協会を新設して会長職に就くというのも一考に値するのではなかろうか。これからも「なでしこ」を頼みます。