私のパフォーマンス理論 vol.37 -注意の向け方について-
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
【まとめ】
・競技者は、「注意をいかにして扱うか」が上達の近道となる。
・注意の向け方は、(1)見る、(2)観る、(3)眺めるの3種類。
・自分の注意が何により散りやすいかを理解しておくことも、うまく扱えるようになる1つの鍵である。
我々は世界をあるがままに見ているのではなく、注意を向けたものを見ている。よく人は見たいものを見ているというが、無意識に注意が向いている場合も多い。注意がどこに向かっているかによって自分にとっての世界は変わる。
注意を向けない世界は非言語の世界だ。仏教的に言えば何も分かれていない無分別の世界、本来無一物の世界と言える。例えばジル・テイラーが奇跡の脳という本の中で、脳卒中で左脳がやられた時私と壁の違いがわからなくなったと書いている。このような世界では非言語であるがゆえに切り分けもなく、自分と外界も切り離されていないので、注意の方向もない。つまり自分も含め世界は全て一つであり、それを場所によっては有であると言ったり、無であると言ったりする。
通常私たちは言葉で世界を分け、注意を向ける先を意識的無意識的に選んでいる。そして言葉の切り分け方は人によって違う。例えば足腰という切り取り方をする人は、足腰全体に矢印が向く。ハムストリングという人はもう少し細分化された部分に矢印が向かう。内転筋の付着部辺りに注意が向けられる人は、その一点に注意が向かう。右足で地面を踏むと言った途端、その足が地面を踏む瞬間に注意が向けられる。このように言葉は、言葉がその形やイメージや関係性をはっきりさせ、外界と切り離す効果がある。だから注意を向けるという行為は、言語で分別された世界の、どこに矢印を当てるかということになる。競技者にとっては扱いづらい注意をいかにして扱うかが上達のカギを握る。
例えばハードルを跳ぶ際に、ハードルの上をすり抜けることに注意を向ける場合と、地面を蹴ることに注意を向ける場合も、”するっ”とした擬態語的動きに注意を向ける場合もある。注意を向ける先が変われば動きは変化する。難しいのは変えたい対象そのものに注意を向けたからと言ってそこが変わるとは限らない点だ。右足を前にだしたいと思っている時には、右足のことを考えるよりも右腕を引いたほうが前に出るということが起こる。さらには右足はみぞおちから始まっているのだと、架空の身体をイメージしそこに注意を向けたほうが大きく前に足が出るということが起こる。
この起こしたい動きと、それを引き出すボタンの関係性を理解するには、あちこちに注意を向けることを繰り返すしかない。陸上競技は反復行為がほとんどだが、やろうと思えば全ての走りで注意を向ける場所を変えることもできる。注意を向けた先と動きの変化を観察し、そこから法則を学ぶ。私がある型を教えるのではなく、一見競技と関係のなさそうな動きを進めるのはこの関係性の理解をしてほしいからだ。身体の図式が出来上がり、どこがどこに影響しているかが理解できれば、出したい動きを出すことができるようになる。決められた動作しかできないようにプログラミングされた選手は、成長や老化によって自分という個体の条件が変わった時に、再適応できなくなる。注意の向け方が中途半端な選手は、反復が文字通りただの反復にしかならず関係性が理解されない。
注意を邪魔するものはたくさんある。そもそも注意がどこに向くかは意識的な世界と、無意識の世界がせめぎあっている。よく走高跳や走り幅跳びで選手が試技の前にいろんな動きをするが、あれなども注意を向ける先を絞っている効果がある。気が散るとは注意が動いてしまうことだ。自分の注意が何によって引きずられやすいのかは観察して理解しておくといい。それを使って注意を扱うことも、またそれを避けて注意を高めることも可能だからだ。
細部に注意を向け続けると、次第に全体に歪みが生じることがある。いわゆる視野が狭くなりブラインドスポットができる状況だ。だから競技者は注意を細部に向ける時と、全体を見る時を繰り返す必要がある。虫の目、鳥の目とも言えるか。私の考える注意の向け方には、三種類ある。見る、観る、眺めるだ。後半に向かって徐々に俯瞰が強くなる。
見るは、自分も対象物もはっきりしている。注意を向ける先も明確だ。観るは、注意を向ける先がぼんやりしている。三人目の前にいて、三人の動きをぼんやり追う時などは観る動きに近い。焦点を合わせずぼんやり中央を観ている。眺めるはさらに距離を取り、眺めている自分自体もぼんやりさせる。どこかに注意を向けるというよりも佇んでいるというのに近くなる。ぼーっと海を眺めている時に、携帯が鳴ってハッと我に帰るときがある。あの時の自分と海の関係性が曖昧に漂っている状態、あれが眺めるに近い。
見るは細部に注意を向けるのに適していて、観るは全体の動きに注意を向けるのに適している。眺めるは、全体の中からある要点を抽出するのに似ている。見るは上手くなるが行き詰まる。観るは自然だが具体的ではない。眺めるは難しいがいきなり要点を掴める。余談だが、引退してコメントをする職業をするときはこの眺める感覚がとても近い。自分も対象も社会の空気もあるべき意見も一旦捨てて、ぼんやりとしながら中空からいきなり要点を掴む。そうすると隠れた見方が出てくることが多い。
動きの際の注意の向け方は難しいが重要だ。パフォーマンスとは動きであり、動きとは連動だからだ。連動するものは中心点が瞬時に変わっていく。いやないとも言える。この変わりゆく動きのどのタイミングのどこに意識するかでパフォーマンスは変わる。時にはそれが身体を外れ中空のどこか一点というときもある。身体を外れたところに注意を向けたほうが結果として身体を上手く扱えることもある。動きでは一点に注意を向け続けるよりも、ぼんやりとしたイメージに注意を向けていたほうがうまくいくことが多い。私は、川で平たい石を投げて水切りをするが、あのようなイメージで自分の走りを捉えていた。注意を向ける先は身体の部位ではなく抽象的な動き自体だった。
注意は地味だが威力がある。注意を扱うことが癖づいた人間は、何を観察させても学べるようになる。
トップ画像:pixabay by Helmut_Strasil
あわせて読みたい
この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。