私のパフォーマンス理論 vol.39 – 腕振り-
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
【まとめ】
・腕振りは地面からの推進力を得る役割がある。
・四肢の動きと地面に乗り込むタイミングを一致させるのが重要。
・腕振りの質は技術、広背筋群の強さ、柔軟性で決まる。
【乗り込みについて】で乗り込みの技術が短距離で最も重要だと書いた。その乗り込みの際に地面に対して圧をかけることを増幅させるのが腕振りになる。
競技を始めたての頃は脚が力を生みそのバランスを腕がとっていると思っていたが、実際には腕が主導して脚の軌道を決めていると考えるようになった。腕振りの役割はただ体のバランスを取ることだけではなく、積極的に地面に力を加えることを手伝い、推進力を得ることにある。特に競技力が上がってくる後半では、脚はより受け身かつ、股関節の動きも静的になってくるので、腕振りの貢献度はより大きくなる。歴史的に見て、スプリンターの上半身が巨大化しつつあるのはこれと無関係ではないだろう。
人間の体が一つの球体であれば、タイミングは地面につく瞬間に中央で力を入れるという一点でいいが、人体は複雑で、大きくいえば胴体と四肢で構成されている。腕振りは、腕を振るイメージがあるが、肩甲骨の動きが最も重要だ。むしろ腕はそこで起きたことの結果に過ぎない。走る行為の中でタイミングを合わせるということは、身体、主に四肢が、地面に乗り込む瞬間に地面に圧を加えそれを前方方向に運ぶという一点に集約されるということと言える。腕は振り子のように動いている。振り子は最も下にある時点で最も地面に圧を加えることができている。ブランコを漕いでいて、座面に自分の体重が一番かかるのは地面に近づいた時だ。あれと同じ原理で腕振りも動いている。短距離選手が良くタイミングが合っているというのは、この四肢の振り子と地面に乗り込むタイミングが一致していることを言う。
腕振りのタイミングはどの競技も基本的には変わらない。高跳びのように一歩で大きな力を得ようとすると、大きく振り込んで地面に力を加える。短距離のように力を加えることを繰り返す時は、振り方をシンプルにしてリズミカルに振る。跳ぶ競技は多少体がねじれてもいいので腕を八の字にふることもあるが、走る競技はねじれることで足の回転速度が落ちるので、基本的には腕を縦にふる。
回転する椅子に座って腕を前後に振ってみると、自分の腰がくるくる回転されることに気がつく。走る行為は足を交互に出していくので、最高速度の一秒間に4-5回程度回転する。自分の腕を後ろで握手をするような状態にして走ってみると、想像以上に走りにくいことに気がつく。腕は激しく回転する骨盤を安定させる効果がある。特に大きなストライドを出すためには腕の役割は大きい。右腕を引くことと、右足側の骨盤が前方に引き出されることは繋がっている。サニブラウン選手のように大きなストライドで走ろうと思うと、必然腕振りは大きくなり、足を前方に引き出すために腕の後方への引きも強くなる。このような選手は着地の瞬間に肩ごと地面に抑えるような仕草をするので、一見首を伸ばして顎が上がっているように見える。私もそうだった。ついその癖を直したくなるが実際には足の動きを肩を下げることでコントロールしているので、直してしまうと特徴である大きなストライドまで死んでしまうのでやらない方がいい。
腕振りのタイミングがずれている選手の問題は、地面から十分な力を得られないということだ。ブランコに乗り慣れていない子供が変なタイミングで漕いでしまい、逆に振り子が小さくなっていくが、あれと似ている。腕振りによってむしろ力を打ち消してしまっている。腕振りのタイミングが合っていない選手は後半の失速や、胴体のぐらつきが顕著に見られる。原理としては走りという行為は地面から跳ね返ってくる力を自分の身体に流すことと、少し残った力を自分の足を前方に運ぶことに使っているが、踏む瞬間に十分な力を得られなかった場合、自分の力で自分の足を前方に運ばなければならない。このような状態では遅い速度ではいいが、加速して足が高速で前後し始めると耐えられなくなり体がぐらぐらゆれ始める。
腕振りの質を決めるのは技術が大きいが、それを支えるのは広背筋群の強さと、柔軟性だ。トップスプリンターの背中が大きくなり、肩甲骨周辺のストレッチを増やし始めるのはそれなりに理由がある。肩甲骨の柔軟性が十分でなければ腕につられて胴体も振れてしまい捩れが生じる。この捩れが、最高速度を低くしてしまう。技術に関しては、スランプの時に腕振りのタイミングがずれてうまく合わせられなくなったことがあった。いろんな練習をやったが、感覚がつかみやすかったのは階段で膝をほとんど曲げずに腕振りの力だけで一段ずつ登るようなドリルを繰り返すものだった。
腕振りとは少しずれるが、地面についている側とは反対の脚を遊脚という。この脚は乗り込みの瞬間に完全にブランコの下の位置というよりも少しだけブランコが行き過ぎて前方に運ばれた状態の方が望ましい。これは手足ともに振り子が完全に下の状態で乗り込んでしまうと、地面からの力が垂直方向に跳ね返り過ぎて体が弾みすぎるからだ。レース中上下にガクガクする選手はだいたい遊脚の位置が間違えている。遊脚はたたんだ後、上下よりもむしろ後ろから前に地面と水平に引き出していくイメージの方が近い。この足のタイミングと、腕のタイミングの取り方が少し違うところが最初は分かりにくいかもしれない。
腕振りは一度タイミングがあったものを体得すると、そうではない状態には戻れない。一方で、これかというのがわかるまでは腕振りのことを言われても何のことかわからなかった。典型的な体験すればわかる類の技術であり、ついスプリンターは脚に目が行きがちだが、隠れた重要な技術である。
トップ画像:photo AC by ロッシー
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この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役
1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。