実は「本場」も「標準」もない 方言とソウルフードについて最終回
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
写真)スパゲッティナポリタン
出典)Photolibrary:Ⓒ37
【まとめ】
・「本場の……」という表現は正確さに欠ける場合がある。
・食文化は過去100年間で大きく変化し、ソウルフードという言葉の意味合いも変わってきたと考えられる。
・言語同様、食に対するこだわりも、他人にそれを強要しない限りにおいて、人それぞれでよいのではないか。
数年前になにかの漫画で読んだのだが、イタリアのナポリで
「本場のスパゲッティ・ナポリタン」
を注文する日本人を笑いものにする描写があった。あまり笑えなかった。
理由のひとつは、あれは本当にイタリア料理だと思い込んでいる日本人が意外と多い、ということ。いまひとつは私自身の経験からで、英国ロンドンに渡って暮らし始める前は、きっと「本場のイギリスパン」が食べられるものと思い込んでいて、実はかの英国にああいうパンはないと知り、大いに落胆させられたものだ。
後者すなわちイギリスパンについては、私の最初の単行本である『英国ありのまま』(中公文庫、電子版アドレナライズ)に詳しく書いたので、連休中にでもご参照いただけるとありがたいが、前者について、本当の発祥の地は横浜だと知っている日本人など、ごく少数派なのではないだろうか。私の偏見であったなら申し訳ないが。
敗戦直後、洋食の材料など、横浜でさえ事実上なにもなかった頃、あるホテルのシェフが、米占領軍が持ち込んだケチャップでパスタに味をつけたのが始まり。名前については、そのシェフが見栄を張ってナポリ風だとかなんだとかホラを吹いたのが、そのまま料理名として定着してしまったとも、昔からフランス料理の世界では、ケチャップで味付けするのをナポリ風と呼んでいた(おそらくバカにしていたのだろう)事に由来するとも言われている。
ついでに、ハヤシライスというのも、横浜で洋食屋を営んでいたハヤシさんという人が、辛いカレーが苦手な人のために工夫したものだという説がある。もっともこちらは、単に「ハッシュドビーフ・ライス」が訛ったのだとする説の方が有力らしい。
写真)ハッシュドビーフ(イメージ)
出典)Photolibrary:Ⓒつるピカード
このように、日本で独自に工夫された「洋食」は実にバリエーション豊かで日本人の口にも合う。これまた『英国ありのまま』でも触れたことだが、私など、
「外国に長くいて、懐かしくなる日本の食べ物って、なんですか?」
といった質問を受けた時など、ためらわずに
「日本の洋食ですね」
と答えたものだ。相手は多くの場合、これは意外だ、というリアクションを見せるが、別に私は、奇をてらったわけでもなんでもない。寿司や天ぷら、焼き鳥などは、ロンドンの日本食レストランでいくらでも食べられた。ご飯はたいていカリフォルニア米であったが、そう悪くはない。
その一方、日本食レストランではなぜか、ハンバーグや生姜焼きといったものが食べられない。どうも、日本語の看板を掲げたからには「和食」一本槍で勝負すべし、といったような思いにとらわれているのではあるまいか。一体いつの時代のレシピにまでさかのぼれば「本物の和食」と言えるのか、という話だが。
「本場の……」という表現にしても然り。本シリーズでもロンドンの食文化について、中華料理やインド料理、イタリア料理などは本場物が食べられる、などと書いたが、厳密に言うとこれは正確さに欠ける表現であった。読者の皆様には、お詫び申し上げます。
どういうことかと言うと、中華料理と一口に言っても、大雑把な分類で八系統(山東、広東、四川、福建など)あり、さらに山東料理の中に北京料理が、福建料理の中に台湾料理が含まれる、という具合になっているからだ。ロンドンのチャイナタウンでは、香港出身者が多数派だという事情もあって、広東料理の店が多いが、北京ダックを売り物にする店や、四川料理の店もある。
インド料理に至っては、地域差だけでなく、これも本シリーズで触れた通り、信仰する宗派によってタブーとされる食材が異なるという事情もあり、まさしく千差万別なのである。
言葉も然りで、北京官話と香港などで話される広東語では通訳が必要だとされているし、インドを訪れたジャーナリストが、道ばたで猫を見かけ、同行した通訳に、
「この国の言葉で、猫はなんと言いますか?」
と質問したところ、
「インドの、どの地域の言葉ですか?私の知る限りでも400くらいあるので」
と言われ、大いに驚かされた、とTVで語ったことがある。かの国の公用語はヒンディー語だが、これを母国語とする人は総人口の18%にとどまるそうだ。ちなみにヒンディーとは「言語」の意味なので、イスラム(教えの意味)と同様、語をつけない方がよいのかとも思えたが、ここは日本での慣用的な表記に従ってヒンディー語とした。
話を戻して、冒頭で取り上げたスパゲッティ・ナポリタンのように、そもそも「本場」が日本の外にないものもあれば、日本で定着した一方、本国では廃れた、というものもある。
たとえば、バウムクーヘン。
ドイツからもたらされた菓子なのだが、この連載にもたびたびご登場願った、日独ハーフであるサンドラ・へフェリンさんは、
「私も(子供時代)ミュンヘンで暮らしていた頃、バウムクーヘンという名前は聞いていても、実物を見たことはありませんでした」
と語ってくれた。彼女に限らず、来日して初めてバウムクーヘンを食べたというドイツ人は少なからずいるらしい。日本でここまで普及したのは、切り口が年輪のように見えることから、長寿を連想して縁起がよいとされ、結婚式の引き出物などによく使われるようになったからなのだとか。
写真)バウムクーヘン(イメージ)
出典)photolibrary:Ⓒつるピカード
そうかと思えば、こんな話もある。
やはりこの連載に登場願ったこともある、韓国人ジャーナリストのヤン・テフン氏が、日本のスーパーで時折「本場韓国風キムチ」が売られていることについて、
「あの感覚は、ちょっと理解できませんね」
と語ってくれた。韓国人にとってキムチはまさしくソウルフードなのだが、基本的にそれぞれの家庭で漬けるもので、代々伝承される「我が家のキムチ」のレシピがある一方、本場という概念自体が存在しないらしい。彼はまた、
「韓国でも、最近の若い奥さんなんかは、スーパーで中国製とかの安いキムチを買って来て、家族で食べることに抵抗ないみたいですけどね」
とも語っていた。
以前、日本語は乱れているのではなく変化し続けているのだ、という持論を開陳させていただいたが、食文化・生活文化についても同様のことが言えるのではないだろうか。
前回述べたように、言葉はコミュニケーションの手段であるから、日本語なら日本語の、ひとつの規範のようなものは必要だろう。ただしそれを「標準語」として地方の人にも強要するのはよろしくない。なぜならそれは、ある種の規範に従わない人を「非国民」と呼ぶ発想と同じだからである。
食文化も実は同様で、ソウルフードという言葉の意味合いも、アフリカ系米国人にとって代表的なものとされる食材も、過去100年間で大きく変化してきているではないか。
食に対するこだわりも、他人にそれを強要しない限りにおいて、人それぞれでよいと、私は考えるのだが、どうだろうか。