食べてよいもの、いけないもの(下)方言とソウルフードについて その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・日本の肉食文化は、縄文時代以降様々に変化してきた。
・6世紀半ばに「公伝」した仏教が、当時の日本の食文化にも大きく影響。
・明治維新・文明開化によって肉食が公然化し、菜食主義なども伝来した。
わが国の肉食文化は、身分制度や差別問題と切り離して語ることはできない。
……またしても、突然何を言い出すつもりかと思われた向きもあろうが、色々と読めば読むほど、そのような感想を抱かざるを得ない、という話なのである。
まず、縄文時代は狩猟や採集が生活の基盤であり、もちろん獣肉を食べていた。各地にある貝塚からは、貝殻に混じって大小の動物の骨が多数見つかっている。とは言え、縄文人のカロリー源は実に80%近くが植物由来であったことも、研究によって明らかになっているのである。
また、貝塚という名称からも容易に想像がつくことだが、動物性タンパク質にせよ、その多くを魚介類に依存していた。周囲を海に囲まれ、川にも淡水魚が多く生息しているのだから、山野を駆け巡って野生動物を狩るよりも、手近な魚介類を採取した方が容易だとは、誰でも考えつきそうなことで、要するに縄文人は「少しは肉も食べていた」という表現が妥当なようだ。
弥生時代になって農耕がもたらされてからも、肉食がなくなったわけではないのだが、有名な『魏志倭人伝』の中に、
「(倭人は)近親者の喪に服す際には十日間肉食を絶つ」
という記述がある。
これはどういうことなのかと言うと、仏教が日本に伝わってから「殺生戒」によって日本人が肉食を避けるようになったわけではなく、古代より、動物を殺してその肉を食する行為を「血の穢れ」として忌み嫌う、民間信仰のようなものがあったものと考えられる。
そして538年(欽明天皇・戌午の年。諸説あり)、仏教が公伝することとなった。公伝というのは、今風に言えば「外交ルートを通じてもたらされた」ということだ。
紀元前450年頃、現在のネパールで生まれた仏教は、紀元前1世紀には中国大陸に、そして3世紀後半から4世紀前半にかけて朝鮮半島に広まった。平行して、日本列島には帰化人あるいは渡来人と呼ばれる人たちが多数やってきていたが、その多くが朝鮮半島出身者で、彼らによって仏像や仏典はすでに持ち込まれていたものと考えられている。
つまり、我々昭和世代が使った教科書などには、単に「文教伝来」とされていたが、これだと正確な時空列が分かりにくい、ということで「公伝」の語が用いられるようになった。現在の朝鮮半島南部で栄えた百済からの使節が、時の天皇に仏典を献上したという史実に由来する。
それはさておき、仏教が伝わったことによって、それまでにもあった「血の穢れ」を忌み嫌う肉食タブーが、宗教的タブーに置き換えられ、ついには制度化された。675年、時の天武天皇によって肉食禁止令が出されたのである。
と言ってもこれは、4月から9月まで肉食を禁止するという「時限立法」で、禁止の対象も牛、豚、犬、猿、鶏の肉に限られていた。
犬や猿と聞いて、首をかしげた向きもあろうが、実は我が国では、鯨を食べる習慣よりも古くから犬食の習慣があった。猿については、畑を荒らす害獣と見なされていたので、ウサギと同様、駆除したついでに肉を食べる習慣があったものらしい。
ただし、当初の仏教は上流階級の教養と見なされる傾向があり、庶民階級にとっては、肉食禁止令など大して意味を持たなかった。言い換えれば、経済格差とはまた違う次元で、公家や僧侶といった上流階級と、庶民階級との間で食文化の乖離が生じたのである。
さらに言えば、天皇家を頂点とする当時の支配階級が、宗教的タブーとして「穢れ」を遠ざけるようになったことから、動物を殺し、その皮を加工するといった仕事に就く人たちが、公然と差別されるようになってしまった。21世紀の今日に至っても、こうした差別が消滅していないのは遺憾なことだが、ここではその話は、ひとまず置かせていただく。
その後、武士が台頭してくるわけだが、このこともまた、階級によって異なる食文化を定着させる一因となった。なぜかと言うと、武士は狩猟が生活の一部であり、イノシシや鹿の肉を好んで食べていたからだが、その影響で公家や僧侶の中にも、密かに肉食をする者が少なくなかったと伝えられる。前回も少し触れたが、食欲と好奇心の前には、宗教的戒律などしばしば無意味となるのだ。
一方では漁労も発達して、戦国時代の四国においては、商業捕鯨も始まった。
このため……と言ってよいかどうかは疑問が残るところだが、徳川幕藩体制が確立して世の中が平和になると、武士も獣肉より魚介類を好んで食べるようになっていったとされている。とりわけ五代将軍・徳川綱吉の治世にあって「生類憐れみの令」が公布されたことにより、我が国の犬食は終焉を迎えた。
その後の経緯はよく知られる通りで、明治維新・文明開化の副産物として肉食が公然化したわけだが、本当のところは江戸時代の後期から、鍋料理に獣肉を入れるのは別段タブー視されることもなくなったようだ。
2002年に公開された『壬生義士伝』という映画では、新撰組の面々が牛鍋をつついていたし、坂本龍馬は鶏鍋の肉が届くのを待っていたところを刺客に踏み込まれ、暗殺された。
文明開化の副産物ということで言えば、私見ながら、思想としての菜食主義が日本に伝えられたことに、もっと注目してよいのではあるまいか。
菜食主義の歴史は古い。
紀元前6世紀、古代ギリシャの哲学者・数学者であったピタゴラスは、自ら獣肉色を忌避する教団を組織したほどであるし、さかのぼれば紀元前7世紀のインダス文明においても、菜食主義者たちの存在が記録されている。
しかしながら5世紀以降、思想史上の菜食主義は、インド亜大陸以外では事実上途絶えたとされる。その理由は、キリスト教がとりたてて獣肉色をタブー視しなかったためである。
その後、ルネッサンス期に徐々に復権し、18世紀後半から世界的に盛り上がりを見せはじめた。これは主として医学的な見地からのもので、高カロリー・高タンパクの肉食を忌むべきものと考える人が増えた結果であるらしい。
明治維新(1868年)の少し前ということになるが、1847年には英国においてベジタリアン・ソサエティが設立されている。ただ、彼らも乳製品は口にしていたようだ。動物性の食品を一切拒否するヴィーガンが台頭するのは第二次世界大戦後のことだ。
物事は好き好きだという前提で、個人的な思いを少しだけかたらあせていただくと、私は菜食主義やヴィーガンに与する考えはない。
▲写真 Beyond Burgersが提供する、ビーガンベジーバーガー ドイツ・ベルリン(2019年5月18日) 出典:Photo by Adam Berry/Getty Images
私は金剛禅総本山少林寺の僧籍にあるが、仏教本来の考えに照らせば、植物にも命が宿っており、他の命をいただいて自らの命をつなぐのが自然界の実相なのだ。
だから、私は1杯のラーメンを食べる時でも、静かに「いただきます」と言ってそっと合掌するが、動物を殺して食べるのは罪悪だとか、鯨は頭の良い動物だから食べるべきではないだとかいう主張に耳を貸す気はないのである。
トップ写真:ステーキハウスで神戸ビーフを食す(2017年1月18日) 出典:Photo by Buddhika Weerasinghe/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。