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.政治  投稿日:2022/7/30

「個人は質素に社会は豊かに」の精神で 「高岡発ニッポン再興」その21


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・土光敏夫氏は「個人は質素に、社会は豊かに」という言葉を掲げるリーダー

・中村芳夫氏と新谷学氏は現代の「土光敏夫」

・自身も高岡のために汗をかき突き進んでいきたいと考えている。

 

市議会議員をやらせていただきながら、私は作家活動も続けています。作家活動の始まりは、2010年12月でした。その時学んだ「個人は質素に、社会は豊かに」という言葉は、私の政治活動の座右の銘です。

私は当時、経団連副会長だった中村芳夫さんと、のちに「文春砲」の総指揮官として知られる、文藝春秋社の新谷学君と3人で食事をしていました。

民主党の菅直人政権でした。総理大臣は毎年、変わっていました。私はテレビ朝日の「報道ステーション」のデスクをしながら、リーダーの言葉の軽さに懸念を抱いていました。とりわけ民主党政権になってから、言行一致という日本人の美徳が失われているような気がしていました。「政財界でリーダーの言葉があまりに軽い。この人が言うなら仕方がないな。そんなリーダーはいないのか」。

3人で話し合いました。その時、中村さんはポツリ言葉を発しました。「私にとってのリーダーは土光さんです」。中村さんは、土光敏夫さんの経団連会長時代に秘書として仕えていました。

土光さんは現場主義を貫き、一人一人に向き会いました。逃げない男で、右翼が経団連に襲撃した際にも、直接話すと言ってきかなかったといいます。新谷君と私は土光さんに関しては「メザシの土光さん」ということぐらいしか知識はありません。

中村さんの話を聞きながら凄い人物がいたものだと感動しました。突然、新谷君は「出町、書いてみれば」と漏らしました。

実は冗談だったそうだが、私は本気になりました。週末に図書館で参考文献をあさり、中村さん含めた関係者を取材しました。「メザシの土光さん」の全体像に迫ったのです。そして上梓したのが、「清貧と復興、土光敏夫100の言葉」(文藝春秋)です。私にとっては初めての著作です。

土光さんと言えば、石川島播磨工業、東芝の社長を歴任。されには経団連会長、第二臨調会長にもなりました。サラリーマンとして上り詰めたのですが、社用車にも乗らず、満員電車で通勤していました。

「個人は質素に、社会は豊かに」。土光さんは、この言葉を胸に刻みながら、働き続けました。国鉄民営化など行革を次々に実現できたのも、土光さんが第二臨調の会長だったからと言われています。国鉄民営化の抵抗勢力だった労組も、運輸族も、土光さんの質素な生活を知り、受け入れたのです。

土光さんは「自分の火種は自分で火をつけろ」。「サラブレッドより野ネズミの方強い」など数多くの名言を残しています。また、「行革は政府任せでなく、国民運動をしなればならない」。土光さんはこう主張し、国民運動を展開したのです。

新谷君は「震災からの復興の国民必読の書にしようぜ」と言って、担当編集者として音頭をとりました。さまざまなメディア関係者に働きかけたり、都内の大型書店で私のトークショーを開催したりしてくれました。

「どんないい本でも売れなきゃだめだ」。それが新谷君の信念です。東日本大震災直後の発売で、復興を目指す時代の雰囲気にあいました。結局、8万部のベストセラーになったのです。この年の文藝春秋のノンフィクションの売り上げトップでした。

▲写真 新谷氏(左)と筆者出町氏(右) 出典:筆者提供

新谷君は私の大学時代の「盟友」です。卒業式の日に大喧嘩もしたし、新谷君が酒を飲んで海におぼれそうになった際、私が助けたこともあります。

その後、新谷君は週刊文春の編集長として、スクープを連発した。「文春砲」の総指揮官として、日本中を震撼させました。「親しき仲にもスキャンダル」と言いながら、政財界を震え上がらせたりしました。

一方、中村さんは20年以上のお付き合いをさせていただいています。経団連副会長を退任した後、バチカン大使になりました。そして、38年ぶりにローマ教皇の来日を実現したのです。民間大使で、新米大使としてとにかく汗をかいたそうです。人との関係づくりに全力投球したのです。

例えば、ミサに参列し、イベントに出席し、教皇庁高官らと面会し、バチカン専門記者を招きました。さらには、大聖堂や美術館で働く人たち、衛兵、医師・看護師、庭師らも自宅に招いたのです。ローマ教皇とは、世界13億人のカトリック教徒を束ねるトップです。その来日は大きな反響を呼びました。帰国後、安倍内閣と菅内閣では、内閣参与として、産業政策などの陣頭指揮を執りました。

▲写真 中村氏(左)と筆者出町氏(右) 出典:筆者提供

中村さんにしても新谷君にしても、現代の「土光敏夫」のような気がしています。現場主義でさまざまな改革を実現したからです。

私は遅出の政治家です。まだまだ未熟ですが、高岡を変革するために、もっともっと汗をかかなければならないと思います。「個人は質素に、社会は豊かに」。その軸はぶれずに、突き進んでいきたい。高岡の「土光敏夫」と呼ばれるようになりたいのです。

トップ写真:文芸春秋社出版、筆者著作の「清貧と復興、土光敏夫100の言葉」 出典:筆者提供




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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