ビールと法の話 酒にまつわるエトセトラ その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・紀元前3000年頃にはすでにビール醸造が盛んであった。
・ビール史の中で重要なのは「ハンムラビ法典」と「ビール純粋法」。
・現在は米やコーンスターチを加えたものが主流。
人類がビールと出会ったのは紀元前4000年頃、メソポタミア文明が隆盛に向かっていた時期のことであると、広く信じられている。
食べ残したのか作り置きであったのか、ともあれ室内に放置してあった麦粥が自然発酵したものと考えられているが、紀元前3000年頃の遺跡から出土した粘土板(モニュマン・ブルーと呼ばれる)には、当時すでにビール醸造が盛んであったと記されている。
ワインについての記録はもう少し新しく、紀元前3000年頃から同じくメソポタミアにおいて、ワインを作るためにブドウを栽培するようになったとされている。
しかし、最近の研究ではジョージアで発掘された8000年前の遺跡から、ワインを醸造した形跡が見つかっているので、これが最古ではないか、とも言われている。ジョージア政府筋も、自国が「ワイン発祥の地」であるとの宣伝に力を入れているようだ。
ただ、ブドウそのものは氷河期以前、すなわちホモ・サピエンスが地球上を闊歩するようになる前から自生していたとされるし、醸造に必要な酵母は大気中に存在しているので、ブドウが発酵してワインでできること自体は、言うなれば自然現象である。別の言い方をすれば、人類は酒を発明したのではなく発見したに過ぎないのだ。
ただし、酵母が活発に活動する気温が保たれていなければ、容易に発酵しないことも事実であって、冷蔵庫が食品の保存に有効なのも同じ理由によるものだが、とどのつまりメソポタミア(現在のイラクの一部)やジョージア(カスピ海と黒海に挟まれた地域にある)といった温暖な地域でワインやビールが最初に飲まれるようになったのも道理だと言える。
ワインについては項を改めるとして、今回はビールの歴史にとって非常に重要な、ふたつの法律を紹介させていただこう。
ひとつはハンムラビ法典。
紀元前1792年から1750年にかけてメソポタミアに君臨したハンムラビ王が制定したとされることから、こう名づけられた。わが国ではしばしば、主要な条文について、
「目には目を、歯には歯を」
と訳されて、やられたらやり返せ、という精神の産物だと解釈する向きが多かったが、これはまったくの誤解である。
本当は
「人の目を潰した者は自身の目も潰される。歯を折った者は歯を折られる」
といったほどのことで、今で言う等価報復主義を法制化したものと考えてよい。
被害を受けたら加害者に罰を与えるが、その「量刑」は被害と同等まで、ということで「倍返し」は許されなかったのである。
ただし、等価報復が認められるのは身分が対等の者同士に限られており、奴隷が主人をビンタしたら耳を切り落とされる、という具合になっていた。その一方では、奴隷にも一定の人権が認められており、これはセム族の社会にあっては例外に近いそうだ。
それがビールとどういう関係があるのか、と思われた向きもあろうが、実は大ありで、
「水で薄めたビールを売って利益を得た者は水責めの刑に処せられる」
という条文が、ちゃんとあった。
古代メソポタミアでは、生水が危険だという事情もあって、ビールが主たる飲料であり、今で言う補助通貨のような役割さえ与えられていた。祝祭の時など、通常の給与とは別に、ボーナスとしてビールが配給されたのである。ちなみに、
「労働者はおよそ2リットル、役人はおよそ3リットル、聖職者はおよそ5リットル」
と定められていた。およそ、というのはメートル法が制定されたのは何千年も後の話になるからだが、それはさておき、メソポタミアの人々にとってビールは、仕事の後の一杯で
「ああ、生き返る」
といったあたりを超えて、まさしく生きる糧だったのである。「液体のパン」という異名も授けられていた。
この「液体のパン」はその後、古代ギリシャ・ローマを経てヨーロッパに広まっていったが、中世までは前回紹介したミードと同様、スパイスやハーブで味付けした物が主流であった。
12世紀に現在のドイツにあるビンゲン修道院において、初めてホップを使用したビールが醸造されたが(異説もある)、ホップそのものは古代エジプトの時代から薬草として知られており、一部地域では栽培も始まっていたようだ。
キリスト教会は飲酒を罪悪視していないし、また、かつて修道院と言えば学問の府でもあり、様々な分野における知見の宝庫であった。この点は日本の仏教寺院も同様で、たとえば五重の塔で知られる法隆寺の正式名称は「法隆学問寺」であるし、江戸時代には私塾の代名詞が「寺子屋」であったことは有名だ。
話を戻して、ホップを利用したビール醸造法は12世紀に始まったが、ホップを利用することで独特の苦みが得られ、かつ腐りにくくなるという知見が広く普及するには、15世紀あたりまでかかったらしい。
そして1516年に、当時のバイエルン候ウィルヘルム4世が「ビール純粋法」を発布した。煎じ詰めて紹介させていただくと、
「大麦とホップと水以外の物を用いた飲み物をビールと呼んではならない」
としたのである。
これにより、ドイツビールの品質が担保され、ビール醸造において世界のトップランナーの地位を確立していく。ちなみに現在に至るも、この法律は効力を保っている。
他国のビールには別の材料も使われているわけだが、たしかに米やコーンスターチがよく使われる。日本だけでなく世界的に、今やこちらが主流になっていると言っても過言ではない。
米やコーンスターチを加えたほうが、舌触りがまろやかになる、という理由のようだが、ひとつ理解に苦しむのは、麦芽とホップだけで作られ、しっかりと苦みが味わえるビールがちゃんとあるのに、わざわざ「ドライビール」を発明した国があることだ。
『美味しんぼ』(雁屋哲・原作、花咲アキラ・画 小学館)という漫画には、ドライビールはビールではない、といった台詞が幾度も登場していたが、私はこの意見については「消極的賛成派」である。
昨今の首都圏ではドライビールしか置いていない店も多く、つまり選択肢がないこともままあるので、その場合は飲む。飲むが、すぐに焼酎かなにかに切り替えることも多い。
これはまあ、個人の好みの問題なので、これ以上は深掘りしないが、そもそも日本人はいつ頃どのようにしてビールと出会ったのであろうか。
これについては、次回。
トップ写真:ハンムラビ法典(パリ、ルーヴル美術館所蔵)出典:Photo by Art Media/Print Collector/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。