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.社会  投稿日:2024/4/7

技術と理論の怖さについて     「核のない世界」を諦めない その1       


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・映画『オッペンハイマー』、原爆実験までのくだりは息もつかせぬ面が白さ。

・脚本やカメラワークの妙が際立っていて、映画としては良質この上ない。

・作中人物たちの世界観は恐ろしい。

 

映画『オッペンハイマー』を見てきた。

 ご存じの読者も多いであろうが、史上初の核実験を成功させ「原爆の父」と呼ばれたロバート・オッペンハイマー博士の半生を描いた大作である。

 米国では昨年7月21日に封切られていたが、テーマがテーマだけに、日本で上映してよいものかどうか、といった議論もあったようで、今年3月29日にようやく公開された。

 まず、人の映画好きとしての率直な感想を述べさせていただくと、前半というか原爆実験までのくだりは、本当に息もつかせぬ面白さであったが、戦後、彼が「赤狩り」の標的にされてしまうなど、苦難の後半生が描かれる部分は、はっきり言って退屈だった。米国人でも、時代背景などの知識がない向きには、いささか冗長に過ぎるのではなかったか。

 その件は後でもう一度見るとして、この映画の前半部分は「素晴らしいが、恐ろしい」と言うに尽きる。読者諸賢も是非、映画館に足を運んでいただきたい。

 素晴らしい、というのは脚本やカメラワークの妙が際立っていて、映画としては良質この上ない、という私なりの評価であるが、恐ろしい、というのは作中人物たちの世界観だ。

 原子爆弾の開発は「マンハッタン計画」という暗号名で呼ばれていたが、そのプロジェクトのために、主人公オッペンハイマーは高名な学者らをスカウトして回る。

 原爆に限らず、兵器開発と一口に言ってもその裾野は広い。兵器そのものを作るためには機械工学や冶金工学の知見が求められるし、威力をシミュレーションするためには、理論物理学だけではなく高等数学の素養が必要とされる。どれも私には理解の及ばない世界だが。

 映画の前半部分で特に印象に残ったのは、声を掛けられた学者の一人が、

「300年間進歩を続けてきた理論物理学の行き着くところが、大量破壊兵器の開発か」

 と言って参加を逡巡するシーン。

 そんな彼らを突き動かしたのは、ナチス・ドイツが原爆を開発中、という情報であった。

 オッペンハイマー自身は、1904年にドイツ系ユダヤ人の移民2世としてニューヨークで生まれているが、その出自からナチスに敵愾心を持った、ということではないようだ。

 たしかにナチスは反ユダヤ主義の綱領を掲げていたが、アウシュビッツ強制収容所とか、今では周知のユダヤ人迫害の実態は、戦後ようやく明らかになったのである。

 ならば、学者たる彼らを大量破壊兵器の開発に駆り立てた本当の動機とは、一体なんであったのか。この映画が濃厚に暗示しているのは、当時、理論物理学と軍事技術の両面において世界最先進国と見なされていた、ドイツの学者たちに対するライバル意識であったのではないか。

 実際に、映画の中では、我々は6ヶ月遅れをとっている、と危惧するスタッフに、オッペンハイマーがこう反論するシーンがあった。

「我々に有利な点もある。ヒトラーは理論物理学を〈ユダヤ人の学問〉として軽蔑している」

 つまり、米国のマンハッタン計画のように潤沢な予算と人手は割かないのではないか、と。

 そして実際、米国はニューメキシコ州の放牧地(先住民のものであったらしい)にロス・アラモス研究所と称する施設を建設し、全国から科学者や技術者を集めた。この基地だが、責任者に指名されたオッペンハイマーの提言により、一戸建ての住宅多数の他、学校、教会、酒場まで設けられていた。

「充実した研究生活を送るためには、家族と暮らすべきである」

 というのが彼の主張で、研究所と言うより研究者たちの住む街をひとつ造ってしまったのである。

 この「ロス・アラモス研究所」が、すなわちマンハッタン計画推進の主体であったが、1942年6月にスタートしたこの計画には、総額20億ドルが投じられた。

この金額について「当時の日本の国家予算に匹敵する」とした文献が複数あるが、色々読んでみると、それはさすがに言い過ぎであるようだ。

1945(昭和20)年の為替レートは1ドル=15円だったので、単純計算で言えば20億ドルは300億円。一方、昭和19年の国家予算は735億円だから、半分にも満たない。昭和20年はどうなのかと言うと、この年の8月をもって国が事実上潰れてしまったので、予算がどうのという話ではないようだ。

一方では、当時の米国のGDPはゆうに日本の20倍を超えていたと見られるので、前述の為替レートが実勢に近かったとも考えにくい。単純計算で、とわざわざ述べたのは、そういう意味であったが、その詮索はひとまず置かせていただく。

こうして莫大な予算と米国最高峰の研究陣を擁した彼は、次第に原爆実験を成功させることに純粋な情熱を傾けるようになって行く。

前述のように、マンハッタン計画は1942年6月にスタートし、そのコンセプトは、

「ヒトラーのドイツに先んじて原子爆弾を開発すること」

 であったわけだが、そのヒトラーは敗戦不可避と見られる状況下、1945年4月30日に、ベルリンの総統地下壕で自決した。そして実際、ドイツ軍は5月7日にフランスのランスで米英など連合軍に、9日にはベルリンでソ連軍に無条件降伏したのである。

映画の中でも当時、ヒトラーがこの世から消えた以上、原爆の開発を続けるのは無意味では、という発言が聞かれた。しかし政府と軍は、

「まだ日本が残っている」

 と言って、計画の続行を決定する。

このあたりのオッペンハイマーの葛藤と、軍やホワイトハウス筋との軋轢の描き方が絶妙で、それがこの映画を傑作たらしめたと、私は思う。目的は手段を正当化する、とは昔から言われることだが、彼にとってはもはや、原爆実験を成功に導いて、自分の理論の正しさを証明すること自体が目的と化して行ったのである。

1985年にオウム真理教による一連の事件が報じられた際、

(科学者や医者が犯罪に加担すると、本当に無茶苦茶がやれるものだな)

 という感想を抱いた。彼らも最初、ハルマゲドン(最終戦争)に備えて教団を武装化する、という教祖の言に従い、毒ガスの生成などに手を染めたわけだが、逮捕後の供述などから、次第に兵器の実用化は、科学者としての成功の証しだと考えるようになっていたことが読み取れる。これが、科学とか技術の恐ろしい一面で、結果の悲惨さは一連のオウム事件の比ではないにせよ、オッペンハイマーもまた、その危険性を体現してしまったのではないか。

 映画の中でも、計画のお目付役というか一種のご意見番というか、そうした役回りの陸軍大佐(ほどなく准将に昇進)も登場し、これがなかなかよい味を出していたが、実はMIT(マサチューセッツ工科大学)出身で物理学に造詣が深い、という設定になっていた。

そして、オッペンハイマーは、研究陣の中から、核爆発の連鎖反応によって大気が全て燃え上がる危険性を指摘する声が聞かれたと述べて、こんなやりとりになる。

「そうなる確率は?」

「ほぼゼロ」

「ほぼ、か。ゼロだといいのにな」

 原爆が投下された場合の被害のシミュレーションも当然なされたが、あくまでも理論上の想定で、被害者にそれぞれの人生があることなど、一顧だにされない。これが「理論の怖さ」だと。あらためて感じ入った。

 次回は、被爆地となった広島・長崎の実情が描かれなかった問題も含めて、もう少し掘り下げてみたい。

(つづく)

 

トップ写真)上院原子力特別委員会で証言するロバート・オッペンハイマー ロスアラモス原子研究所所長 1945年5月12日

出典)Keystone/Getty Images

 




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