赤狩りと恐怖の均衡について(中) 「核のない世界」を諦めない その4
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・アインシュタイン博士、戦後、反核運動の旗振り役を勤めた。
・1949年8月29日、ソ連は原爆実験に成功した。
・1960年代から70年代にかけて核開発競争は加速度的に進んだ。
「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーが、1950年代の米国を震撼させた「赤狩り」に巻き込まれたのは、若い頃から共産党員と親しい関係(例・不倫)にあったことと、より直接的には、米国の水爆開発に難色を示し、当時のソ連邦が水爆の開発競争で米国に先んじかけたのを、間接的に助けたのではないか、と疑われたからだと、前回述べた。
今さらながらだが、原子爆弾(原爆)は、ウランやプルトニウムの核分裂反応を爆発力に変えるのに対して、水素爆弾(水爆)は重水素や三重水素(トリチウム)の核融合反応を爆発力に変える方式である。その「引き金」として原爆が用いられるが、原爆そのものとの比較で言うと、放射能によって土壌が長期間汚染されるなどの副次的被害は、むしろ少ないとされている。
その代わり、というのも妙なものだが、爆発力は文字通り桁違いで、原爆はTNT爆薬換算でキロトン、すなわち100万倍で表されるが、水爆はと言えば、さらにその1000倍のメガトンという単位が用いられる。
また、一口に核爆弾と言っても様々な仕様があり、広島と長崎に投下された原爆は、それぞれ異なるタイプであった。
俗に広島型・長崎型と呼ばれるが、広島型は非常に燃えやすい性格を備えたウラン235を用い、筒状の爆弾本体の両端に分離装填し、これを高性能爆薬の力で一挙に核分裂させる方法で起爆した。細身の外見から、砲身型原爆とも呼ばれるが、米軍ではリトルボーイ(ちび)というコードネームを用いた。
一方の長崎型は、プルトニウム239を球形の中心に置いて、周囲を爆薬で囲み、その爆発力で一挙に核分裂を起こさせる方式で、爆発力は広島型の1.3倍に達したという。広島型に比べてずんぐりした形状で、米軍のコードネームもファットマン(でぶ)であった。
話を戻して、学者として原爆の開発に関与していながら、その被害の実態を知るにつれて、激しく感情を揺さぶられたのは、オッペンハイマーだけではなかった。映画にも登場するアルベルト・アインシュタイン博士もその一人である。
米国生まれのオッペンハイマーと異なり、ドイツ系ユダヤ人で、ナチスによる弾圧に遭い、米国に亡命してきた彼は、ナチス・ドイツが原爆の開発に着手したとの情報を得るや、複数の学者と連名で、米国も開発を急ぐべきである、との書簡をホワイトハウスに送った。戦後、このことに対する自責の念を繰り返し吐露して、反核運動の旗振り役も勤めている。
こうした学者たちの思いとは裏腹に、大戦後、核軍拡競争が始まってしまった。
冷戦構造そのものについては、大戦末期にすでにその萌芽が見られたことをすでに述べたが、戦争終結からほどない1946年3月5日、英国の元首相ウィンストン・チャーチルが米国のウェストミンスター大学において、こんな演説をしている。
余談ながら、この前年、45年7月の総選挙で、大方の予想に反し、彼が率いる保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗れ、下野していた。すなわち、この時点では「前首相」であったのだ。
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、大陸を遮断する形で鉄のカーテンが降ろされた。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ブダペスト、ベオグラード、ソフィアという名高い古都は、いずれもその向こう側にある」
「これは、我々が望んだ戦争終結後のヨーロッパの姿ではない」
有名な「鉄のカーテン演説」で、共産圏の閉鎖性を象徴する言葉として、西側諸国においてその後も度々引用されてきたが、本当は大学生やインテリ層を対象とした講演で、原爆の秘密は米英とカナダのみで共有すべきである、というのがその主旨であった。
こちら(西側資本主義陣営)だけが核武装している限り、共産主義者たちは「鉄のカーテン」を自ら開いて西ヨーロッパに打って出ることは出来ないだろう、というのである。
しかし現実は冷酷で、1949年8月29日、ソ連邦はカザフスタンの核実験場において原爆実験に成功。米国による「独占」は5年ほどしか命脈を保てなかった。
これを受けて、西側の核開発も加速し、1952年10月3日には英国、1960年2月13日にはフランスが、それぞれ初めての核実験を成功させた。
そして1964年10月16日、中国が核実験を成功させる。
当時の中国は、大いなる政治的混乱の渦中にあった。
1958年に、毛沢東率いる当時の共産党指導部は、当時世界2位の経済大国であった英国を対象に、
「農工業生産で15年以内に追い越す」
という目標を掲げた経済成長政策に乗り出した。世に言う大躍進政策である。
しかし、市場経済がまだまだ未成熟であった当時の中国において、労働者や農民に過酷なノルマを課す経済政策がうまく行くはずもなく、翌59年には全国レベルで飢饉に見舞われた。一説によれば、3000万を超す餓死者が出てしまったという。
さすがにこれは、毛沢東の権力基盤を揺るがす結果しかもたらさず、彼は同年、国家主席を辞任した。後に、1966年の文化大革命を通じて復権することとなるが、これについては本シリーズのテーマとあまり関係がないので割愛させていただく。
ただ、ここで見ておかねばならないのは、1964年の時点では、中国はまだまだ大躍進政策失敗の後遺症から脱することができず、国民の生活水準も非常に低かったということである。
にもかかわらず、莫大な費用がかかる(これについては、シリーズ第1回で触れた)核開発に乗り出したわけで、これは伝聞だが、当時の人民解放軍の上層部は、
「たとえズボンをはかない生活をしても、原爆を持つ国になる」
と言い交わしていたという。
その中国と、朝鮮戦争に際して「血盟の関係」となった北朝鮮も、休戦協定成立から程なく、1956年にソ連邦と核開発協定を結び、科学者を派遣するなどして開発に乗り出したが、最初の核実験に成功したのは2006年のことである。
これもよく知られている通り、北朝鮮は国際的に孤立し、まともな経済活動などできず、国民は満足に食べることさえできていない。その状況下での核開発など、かの国の安全を担保するどころか、長い目で見て逆効果になるであろうと、私は考える。
その議論は次回あらためて見るとして、ひとまず話を世界の核開発に戻すと、中国に続いてインドが核実験に成功した(1974年6月18日)。
このように、1960年代から70年代にかけて、核開発競争は加速度的に進んだのだが、特筆すべきは核兵器(=原水爆)そのものより、運搬手段の進歩が著しかったことであろう。
端的に述べると、広島・長崎に原爆を投下したB-29はレシプロエンジンを搭載した戦略爆撃機であるが、この時代には音速を遙かに超える速度で地球の裏側まで到達するICBM(大陸間弾道ミサイル)が実用化された。
この時期に前出のアインシュタイン博士は、米国のメディアから、
「第3次世界大戦が起きたなら、どのような兵器が用いられると思いますか?」
との質問を受け、こう答えたという。
「第3次は分かりませんが、第4次は容易に想像できます。石と棍棒でしょう」
次なる世界大戦がもし起きたなら、それは破滅的な核戦争になることが必定で、近代文明など跡形もなくなってしまう。それでもまだ戦いたいのであれば、もはや石や棍棒でやり合う他はない、と博士は言いたかったのだろう。
世界の指導者たちも、本当はそのくれいのことは承知しているのではないか。にもかかわらず、どうして核廃絶の動きがなかなか加速しないのか。
それは「恐怖の均衡」という世界観のせいであろうが、次回、もう少し詳しく見てみよう。
トップ写真:1982年に退役した「タイタンⅡ」ミサイル アメリカ・アリゾナ 出典:Michael Dunning / gettyimages
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。