赤狩りと恐怖の均衡について(上)「核のない世界」を諦めない その3
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・共産党員及びシンパを摘発し、追放しようという運動、通称「赤狩り」。
・1950年代、ジョセフ・マッカーシー上院議員が推進した。
・矛先は政治家や公務員だけではなく、映画人や出版人にまで向けられた。
「原爆の父」と呼ばれた理論物理学者のロバート・オッペンハイマーであったが、戦後、米国の政府機関及び安全保障関連の研究機関内から、共産党員及びシンパ(同調者)を摘発し、追放しようという運動、通称「赤狩り」に巻き込まれてしまう。
巻き込まれた、という表現を用いたのは、映画『オッペンハイマー』に描かれて射る通り、彼の妻と不倫相手の女性(!)が、いずれも共産党員であったことから、こうした事態を招いたからであるが、そもそも「赤狩り」とは一体なんであったか、という点から見てゆかねばならないだろう。
言うまでもなく、この表現は日本独自のもので、米国での呼称は
”Red Scare”である。
共産主義の恐怖、が定訳となっているようだが、私は個人的に「共産主義に対する恐怖」の方が正訳に近い、と考えている。
実は連合軍による占領下にあった敗戦後の日本でも、GHQ(占領軍総司令部)の肝煎りで共産主義者が一斉に公職から追放されたことがあり、こちらは「レッドパージ」と呼ばれていた。
赤は、社会主義や共産主義を象徴する色として世界中に認知されており、そうした思想を信奉する政党野生児団体は決まって赤旗を掲げるが、もともとは1789年に勃発したフランス市民革命において、社会主義的な思想を掲げる急進派が、
「支配階級を血に染めよ」
という理念を込めて、赤い旗を掲げたことに由来するらしい(諸説あり)。
少し余談にわたるが、このフランス革命の結果として、それまでの身分別の議会が廃され、新たな国民議会が招集されたのだが、その議場において、保守派は右側、急進派は左側に陣取った。読者ご賢察の通り右翼とか左翼といった呼称は、このことに由来する。
第二次世界大戦後に話を戻して、ナチス・ドイツが敗色濃厚となり、戦争の先行きがほぼ見えてきた時点で、米国はすでに、次なる敵はソ連邦だと考えていた。
前回、後に大統領となる連合軍最高司令官アイゼンハワー元帥らが、ベルリンを占領する軍事行動においてソ連軍に先を越されたことを後悔かつ屈辱的と考え、それが日本の降伏を早めるため、原爆の使用を決断させたと考え得る、と開陳させていただいた。
実際に戦後、具体的には1946年以降、ヨーロッパ東部ではソ連邦の指導下にある共産党一党独裁政権が相次いで誕生し、49年には中国大陸においても、世に言う国共内戦で共産党が勝利を博し、10月1日には北京の天安門広場において、中華人民共和国の成立が宣言されたのである。
これを米国から見れば、共産主義がユーラシア大陸の東西で、その勢力を大いに伸張させている、と映っていたし、米国内でも共産主義者による諜報活動が国家の安全にとって脅威だと受け止められていた。
とりわけ核兵器の開発で米国に後れを取った当時のソ連邦は、なんとかしてその技術や研究成果を盗み出そうと躍起になっていたし、実際問題として、本シリーズで再三取り上げている、世界初の原爆実験を成功させたロス・アラモス研究所にもスパイが潜入していたことが、後に明らかになっている。
また、これは伝聞であることを明記しておくが、ドル紙幣を印刷する造幣局にもスパイがいて、紙やインク、印刷設備の秘密などがソ連邦に流れたらしい。その後、冷戦の先行きがそろそろ見えてきた1980年代末に、その情報が北朝鮮に流出。90年代以降、かの国が大量の、それもかなり精巧な偽ドルを作れるようになったという。
当時、米国政府や軍が抱いていた「共産主義に対する恐怖」は、絵空事でも被害妄想でもなかったのである。
ならば大戦中に、共産党員を妻に持ち、かつ別の党員と不倫までしていたオッペンハイマーが、どうして原爆開発の責任者になり得たのか、疑問に思われる向きもあるやも知れぬ。
これは「赤狩り」にも歴史あり、と言うべき事柄で、米国共産党やその影響下にある労働組合は、反ファシズムを掲げて活動していた。映画にも出てくるが、オッペンハイマーの妻となった女性は再婚で、前の夫は1936年に勃発したスペイン内戦において、ファシストと戦う人民戦線を支援すべく編成された「国際旅団」に参加して命を落としたという。
この内戦は1939年にフランコ軍の勝利に終わるが、同じ年、ヒトラー率いるナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の幕が切って落とされるのである。
ご案内の通り大戦中は、反ファシズムの一点で米国とソ連邦は同盟関係にあり、したがってソ連邦を「労働者の祖国」と考える共産党員たちの活動も、大目に見られていたと述べては語弊がありそうだが、少なくとも表立った弾圧に晒されることはなかった。
そもそもアメリカン・デモクラシーは反ファシズムであると同時に、反共の理念に基づいた思想である。さらに、前述のようにソ連邦による諜報活動の脅威もあったことから、戦後一挙に共産主義者やシンパを排斥する動きが高まったのは、これまた語弊を怖れずに述べれば、自然な流れであったのではないか。
旗振り役はジョセフ・マッカーシー上院議員で、彼が委員長を務めた上院政治活動調査小委員会と、下院非米活動調査委員会が実働部隊となった。このため、赤狩りは別名「マッカーシズム」と呼ばれている。
オッペンハイマー自身も、幾度も述べるようにやり玉に挙げられたのだが、直接的に問題視されたのは、共産党員との個別擬態的な関係性以上に、彼が水爆の開発に反対したことであった。
原爆よりも遙かに強力な水爆を米国が実用化したならば、ソ連邦も開発を急がざるを得なくなる。そうなればゴールの見えない核軍拡競争になる、という理論であったわけだが、マッカーシズム(=赤狩り)に同調した人々に言わせれば、
「ならば共産主義者が先に水爆を持ったらどうするのか」
という話で、案外オッペンハイマーの本音は、間接的にソ連邦の水爆開発を助けることになったのではないか、とさえ見られてしまった。
このように述べると、自業自得ではないか、といった声も聞こえてきそうだが、その解釈は読者一人一人にお任せするとして、ひとつだけ知っておいていただきたいのは、冷戦終結からソ連邦崩壊という歴史を経ても、未だに赤狩りが「アメリカン・デモクラシーの負の歴史」であるかのように語る向きが多いという事実である。
端的に言えば、共産主義の脅威を排除するという「錦の御旗」を掲げたマッカーシーらは、いささか増長し、いい加減極まる「共産主義者リスト」を作成したのを手始めに、スパイとして訴追された者には拷問まがいの自白強要が常態化したのである。
加えて、その矛先は政治家や公務員だけではなく、映画人や出版人にまで向けられた。
実際に、あのチャーリー・チャップリンをはじめ、幾多の著名人が米国に居場所を失う羽目になっている。『ローマの休日』(1953年公開)も、ハリウッドを追われた映画人たちがイタリアで制作・撮影した。
このあたりの事情は、以前にも本連載でも紹介させていただいた『赤狩り』(山本おさむ・著 小学館)を読まれるとよいだろう。
次回、もうひとつの論点である「恐怖の均衡」について見てみることとする。
トップ写真:ジョセフ・マッカーシー米上院議員 出典:Photoquest/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。